第四話

 日々は過ぎ、三虎は随分回復してきた。

 あと五日で、大川さまと三虎は奈良へ発つ。



 辰の刻。(朝7〜9時)


「三虎、入ります。」


 女官として三虎の部屋に顔を出すと、三虎は倚子に座り、木簡もっかんに目を通していた。

 もとどりには黒錦石くろにしきいしかんざしが黒、銀、紅に輝いている。

 背筋がすらりと伸び、武芸に通じた鋼のような肉体を持ちながら、じっと動かず木簡に没頭する姿は、静謐な気をまわりに放っている。


(真剣な顔の三虎、格好いい……。)


 古志加こじかは笑顔で、蘇比そび色の裳裾もすそを軽やかに揺らし、薄桜うすさくら色の領巾ひれをふわりとなびかせ、歩み寄る。

 すぐ三虎は顔をあげ、まっすぐ古志加を見て、


「※窈窕鳴衣玉エウテウメイイギョク  玲瓏映彩舟レイロウエイサイシュウ


 所悲明日夜ショヒメイジツヤ  誰慰別離憂スイイヘツレイイウ。」


 とうたった。


(えっ?!)


 大和言葉やまとことばじゃない。

 なんて言ったか全く分からない。

 古志加は激しく困りながら、


「あの……、あの……。何て……?」


 と尋ねると、三虎がちょっと唇を突き出し、ぷいっとむこうを向いた。


「何でもない。忘れて良い。」

「はぁ……。」


 なんだろう今の顔は。

 この前見た、わらはが拗ねた顔に似てる。


「座れ、古志加。話がある。」

「はい。」


 三虎はもういつもの無表情だ。

 素直に古志加は倚子に座る。


「あと少しで、オレは奈良だ。その前に、一回しっかり話しておく。

 前に話した時は、おまえはうらぶれしかけていたから……。

 つまは、好きな相手を選んで良い。」

「はい。」


 つまは得ない。

 と思いつつ、素直に返事をしておく。


「好きなだけ、卯団うのだんにいて良い。」

「はい。」


 これは嬉しいことだ。

 古志加の顔が笑顔になる。


「もう、大川さまから褒美を戴いてるだろうが、今回、おまえは良く頑張ったから、何かオレからも褒美をやる。

 奈良に連れていけは無しだ。

 それ以外で、オレから何が欲しい。望みを言え。」


 三虎は淡々と言う。


「え……。」


 古志加はびっくりして、急いで目を伏せた。

 もう塩壺を貰ったのに、宇万良うまらの練り香油を貰ったのに、貰いすぎではないか。

 おまけにあたしは、日佐留売ひさるめから、


「三虎と食べていらっしゃい。弟によろしくね。」


 とちょくちょく米菓子を持たせてもらっては、三虎と食べている。

 この上、何かもらえるなんて、良いのだろうか。

 むしろ、戸惑ってしまう。


 しかも、オレから何が欲しい、って、この人言った!


(ひぇぇ……。)


 そんな言い方。

 意味もなく心臓しんのぞうがバクバクしてしまう。

 いや、意味はある。


 ……あたしは、あなたが欲しいです。

 ……あなたの全部が、欲しいです。


 あたしの心臓しんのぞうのバクバクは、そう言ってる。

 言えるか。

 あたしを、あなたの吾妹子あぎもこに。



 古志加は頬を真っ赤に染めながら、うつむき、せわしなくあちこちを見ながら、


「あ……、あ……。」


 と言った。

 三虎は黙って聴いている。


「あ……!」


 そこでふいに、胸に一つの言葉が浮かんだ。


 ───三虎は、あたしを恋うてないからさ。


 古志加は冷水を浴びせられたように、身体がかたまった。


 そうだった。

 三虎はあたしを恋うてない。

 褒美に吾妹子にしてほしい、なんて言ったって、なんになるだろう。

 なんになるだろう……。



 古志加は、すっと顔をあげた。

 もう頬は赤くない。

 まっすぐ三虎を見て、


「あたし、欲しい物は何もないの。

 もう衣も、かんざしも、首飾りも、耳飾りも、化粧紅けしょうべにも、おみならしい物は何もいらない。

 住むところもあるし、食べ物にも困らない。

 あたしそれより、衛士として強くなりたい。

 もっとあたしを鍛えて。強くなりたい。

 それが、あたしの望みです。」


 女らしい物は、今持ってる分で充分だ。

 それより強くなりたい。

 あたしは前に、藤売ふじめを守れなかった。

 また今度、日佐留売か誰かがさらわれそうになったら、必ず賊から守れる強さが欲しい。

 もし、今のあたしが、丙午ひのえうまの年(766年、8年前)、家にいたら、母刀自を攫いにきたおのこを倒せたはずだ。

 それは叶わない願いだけど、あたしは衛士だ。強さが欲しい。


 古志加がきっぱり言うと、三虎が意外そうに目を丸くした。そして、


「疲れた……。」


 と額を抑え、少しよろめきつつ倚子を立ち、部屋の奥の寝床のほうへ行き、腰掛け、どさりと仰向けになった。

 腕を頭の上で組み、鼻高沓はなたかぐつを履いたまま、足を組み、組んだ上の足をブラブラさせつつ、無言でこっちを見てる。

 ちょっと顔をしかめ、唇を突き出し、本当に拗ねたわらはのようだ。

 少し頬に朱がさしてる。


「ええと……。あの……。」


 古志加は、会話の途中でいきなり寝床に行ってしまった三虎に、ひたすら戸惑う。

 今までそんなことはない。

 ふっと三虎が天井のほうを見て、やはり拗ねた顔で、


「わかった。もう良い。」


 と言った。


「あの、お疲れなら、白湯か何か……。」


 と古志加は倚子から立ち上がりながら言うが、


「いい。もう行け。」


 とだけ、無表情になった三虎は言った。





     *   *   *




 三虎の部屋を出てから、日佐留売の部屋に向かう。


(あれ……。)


 唐突に悲しくなって、泣きたくなった。

 なんでだろう。

 ぽろり、と涙が古志加の目から零れた。


(あたし、何か間違えたのかな……。)


 胸が締め付けられる。

 なんで。

 わからない……。




    *   *   *




 古志加が簀子すのこ(廊下)を去っていく足音を聞きながら、三虎は寝床の天井を一人見上げ、


「バカなヤツ。」


 と呟いた。

 もう起きて、働きの良い下人げにん三人に、三本ずつ鉄鎌てつがまを渡し、今年の宇万良うまらの花びらを集めておくように言わねば。

 医者に鉄斧てつおの三本を渡し、集めた花びらを乾燥させ、質の良い椿油と、蜂の巣二つ、手に入ったら、オレがまた上野国かみつけののくにに戻るまで、保管しておくよう言わねば。

 ……いや、宇万良の練り香油をこの冬はよく使ったから、蜂の巣三つが良い。

 鉄斧四本にするか……。


 奈良でも宇万良の花は手に入る。

 生花のほうが本当は良い。

 だが、上野国かみつけののくにで下人に集めさせたほうが量も質も良い、と三虎は思っている。

 上野国が好きだからだ。


 もう起きねば、と思うが、身体が動かない。

 ゴロリと身体を横向きにし、三虎は右手で寝床をトントンと叩いた。


「本当、バカなヤツ。」


 もし古志加が寝床の方に近寄ってきたら、

 その手を引いて、

 オレの身体の上に倒れさせた……かもしれない。

 それで驚いた古志加が逃げ出さなければ、

 そのままくるりとオレの身体の下に敷き、口づけをし、───優しく、包むような、だが熱く、おみなの肩を震わせるような口づけをし、こういう事だが、と教え、


「望むなら、今夜、オレの部屋に来い。」


 と言った……かもしれない。

 あくまで、かもしれない、だ!




 ───欲しい物は何もないの。

 強くなりたい。

 それがあたしの望みです、だぁ……?




 古志加はオレの手を離れたな、と思う。

 これでもう、一年近く上野国かみつけののくにを留守にして、古志加がどうなっているか、オレには分からない。

 卯団うのだんにいるか。

 誰かつまを見つけているか。

 布多未ふたみを選び、酉団とりのだんにいるか。


(ふん、好きにしろ。)


 オレは古志加に好きにしろ、と言っちまったからな!





 ……そしてオレは、強くなりたい、という古志加の望みを、どうやったら叶えてやれるか、思案し始めている……。




 まだ寝床をトントンと指で叩きながら、


「バカはオレか。」


 と三虎はひとりごちた。









※参考……古代歌謡集  日本古典文学大系  岩波書店







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