第四話
日々は過ぎ、三虎は随分回復してきた。
あと五日で、大川さまと三虎は奈良へ発つ。
辰の刻。(朝7〜9時)
「三虎、入ります。」
女官として三虎の部屋に顔を出すと、三虎は倚子に座り、
背筋がすらりと伸び、武芸に通じた鋼のような肉体を持ちながら、じっと動かず木簡に没頭する姿は、静謐な気をまわりに放っている。
(真剣な顔の三虎、格好いい……。)
すぐ三虎は顔をあげ、まっすぐ古志加を見て、
「※
と
(えっ?!)
なんて言ったか全く分からない。
古志加は激しく困りながら、
「あの……、あの……。何て……?」
と尋ねると、三虎がちょっと唇を突き出し、ぷいっとむこうを向いた。
「何でもない。忘れて良い。」
「はぁ……。」
なんだろう今の顔は。
この前見た、
「座れ、古志加。話がある。」
「はい。」
三虎はもういつもの無表情だ。
素直に古志加は倚子に座る。
「あと少しで、オレは奈良だ。その前に、一回しっかり話しておく。
前に話した時は、おまえは
「はい。」
と思いつつ、素直に返事をしておく。
「好きなだけ、
「はい。」
これは嬉しいことだ。
古志加の顔が笑顔になる。
「もう、大川さまから褒美を戴いてるだろうが、今回、おまえは良く頑張ったから、何かオレからも褒美をやる。
奈良に連れていけは無しだ。
それ以外で、オレから何が欲しい。望みを言え。」
三虎は淡々と言う。
「え……。」
古志加はびっくりして、急いで目を伏せた。
もう塩壺を貰ったのに、
おまけにあたしは、
「三虎と食べていらっしゃい。弟によろしくね。」
とちょくちょく米菓子を持たせてもらっては、三虎と食べている。
この上、何かもらえるなんて、良いのだろうか。
むしろ、戸惑ってしまう。
しかも、オレから何が欲しい、って、この人言った!
(ひぇぇ……。)
そんな言い方。
意味もなく
いや、意味はある。
……あたしは、あなたが欲しいです。
……あなたの全部が、欲しいです。
あたしの
言えるか。
あたしを、あなたの
古志加は頬を真っ赤に染めながら、うつむき、せわしなくあちこちを見ながら、
「あ……、あ……。」
と言った。
三虎は黙って聴いている。
「あ……!」
そこでふいに、胸に一つの言葉が浮かんだ。
───三虎は、あたしを恋うてないからさ。
古志加は冷水を浴びせられたように、身体がかたまった。
そうだった。
三虎はあたしを恋うてない。
褒美に吾妹子にしてほしい、なんて言ったって、なんになるだろう。
なんになるだろう……。
古志加は、すっと顔をあげた。
もう頬は赤くない。
まっすぐ三虎を見て、
「あたし、欲しい物は何もないの。
もう衣も、
住むところもあるし、食べ物にも困らない。
あたしそれより、衛士として強くなりたい。
もっとあたしを鍛えて。強くなりたい。
それが、あたしの望みです。」
女らしい物は、今持ってる分で充分だ。
それより強くなりたい。
あたしは前に、
また今度、日佐留売か誰かが
もし、今のあたしが、
それは叶わない願いだけど、あたしは衛士だ。強さが欲しい。
古志加がきっぱり言うと、三虎が意外そうに目を丸くした。そして、
「疲れた……。」
と額を抑え、少しよろめきつつ倚子を立ち、部屋の奥の寝床のほうへ行き、腰掛け、どさりと仰向けになった。
腕を頭の上で組み、
ちょっと顔をしかめ、唇を突き出し、本当に拗ねた
少し頬に朱がさしてる。
「ええと……。あの……。」
古志加は、会話の途中でいきなり寝床に行ってしまった三虎に、ひたすら戸惑う。
今までそんなことはない。
ふっと三虎が天井のほうを見て、やはり拗ねた顔で、
「わかった。もう良い。」
と言った。
「あの、お疲れなら、白湯か何か……。」
と古志加は倚子から立ち上がりながら言うが、
「いい。もう行け。」
とだけ、無表情になった三虎は言った。
* * *
三虎の部屋を出てから、日佐留売の部屋に向かう。
(あれ……。)
唐突に悲しくなって、泣きたくなった。
なんでだろう。
ぽろり、と涙が古志加の目から零れた。
(あたし、何か間違えたのかな……。)
胸が締め付けられる。
なんで。
わからない……。
* * *
古志加が
「バカなヤツ。」
と呟いた。
もう起きて、働きの良い
医者に
……いや、宇万良の練り香油をこの冬はよく使ったから、蜂の巣三つが良い。
鉄斧四本にするか……。
奈良でも宇万良の花は手に入る。
生花のほうが本当は良い。
だが、
上野国が好きだからだ。
もう起きねば、と思うが、身体が動かない。
ゴロリと身体を横向きにし、三虎は右手で寝床をトントンと叩いた。
「本当、バカなヤツ。」
もし古志加が寝床の方に近寄ってきたら、
その手を引いて、
オレの身体の上に倒れさせた……かもしれない。
それで驚いた古志加が逃げ出さなければ、
そのままくるりとオレの身体の下に敷き、口づけをし、───優しく、包むような、だが熱く、
「望むなら、今夜、オレの部屋に来い。」
と言った……かもしれない。
あくまで、かもしれない、だ!
───欲しい物は何もないの。
強くなりたい。
それがあたしの望みです、だぁ……?
古志加はオレの手を離れたな、と思う。
これでもう、一年近く
誰か
(ふん、好きにしろ。)
オレは古志加に好きにしろ、と言っちまったからな!
……そしてオレは、強くなりたい、という古志加の望みを、どうやったら叶えてやれるか、思案し始めている……。
まだ寝床をトントンと指で叩きながら、
「バカはオレか。」
と三虎はひとりごちた。
※参考……古代歌謡集 日本古典文学大系 岩波書店
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