第二話

 昼餉ひるげの時間に、日佐留売ひさるめの許しを得て、卯団うのだんに顔を出す。

 八人の衛士がいた。


「おう、古志加こじか!」

「古志加じゃないか!」


 と口々に言いつつ、皆ちょっと驚いた顔をする。

 蘇比そび色の女官姿は見慣れないせいだ。


「あたし、戻ってきたよぉ。心配おかけしました。ありがとおぉ!」


 と荒弓に抱きつき、近くの衛士に次々と抱きついていく。

 そして阿古麻呂あこまろのところに来たところで、古志加の抱きつこうとしていた腕が、ぴたっと止まり、手を握りしめ、両手を自分の胸に引っ込めてしまった。


(あれ……?)


 頬が熱い。

 下を向いてしまう。


 抱きつくのが恥ずかしい。


 抱きしめてもらうのも、抱きつくのも大好きだ。

 それを恥ずかしいと思ったのは、初めてだった。

 とまどう古志加を、阿古麻呂のほうから、軽い力で抱きしめてくれた。

 古志加と阿古麻呂は背が同じくらいだ。

 古志加の肩のちょっと上に顔をだした阿古麻呂が、


「古志加、オレの夢は見た?」


 とつぶやいた。


「え? 見てないよ。」


 と告げると、阿古麻呂は、ふ、と笑い声をちょっともらし、


「そう。」


 とすぐに離れようとした。そこを、


「古志加、オレも! 良かったな!」


 と他の衛士が、二人に覆いかぶさるように抱きついてきた。

 オレも、オレも、と次々に抱きついてきて、みるみる団子だんごのかたまりのようになった。


「うわっ!」


 と阿古麻呂が古志加を抱きしめたまま、ギュウギュウとまわりの圧に押され、驚いた声を出した。


「あはは!」


 と古志加もきつい圧に楽しい笑い声をあげ、まわりの、


「良かったな!」

「心配したぜ!」


 の声に負けないよう、


「阿古麻呂、ありがとう!」


 と大きな声でお礼を言った。






 あたしは、阿古麻呂が強引に口づけしたことに、あれだけ憤りながらも、心のどこかで阿古麻呂に甘えている。

 衛士の濃藍こきあい衣でも、女らしいと言ってくれた人。

 ただ一人、あたしを恋うてると言ってくれた人。

 

 大川さまの怒りを買ったことを三虎が知ったら、三虎はあたしを許すまい。

 日佐留売ひさるめはあたしをかばってくれるかもしれないが、女嬬にょじゅであり、三虎の姉である日佐留売に、迷惑をかけてしまう……。

 そしたら、あたしは阿古麻呂を頼ろう。

 そっと卯団うのだんを抜けて、阿古麻呂と夫婦めおととなり、良い妻となる努力をしよう。そしたらもう、阿古麻呂の口づけを嫌がらず、あたしは受け止めることができるはずだ。

 心は……。

 この恋があたしの心から消えて無くなる日は、来るのだろうか。

 わからない。

 でも、親無しのあたしは、卯団にいられなければ、どこにも行き場はないのだ。

 板鼻郷いたはなのさとの山の中腹の家で、たった一人暮らしていくのは、あまりにも寂しい。

 あてもなくどこかの郷を彷徨さまようのだって、あまりに寂しい。

 そうならないですむ、と思えた事であたしは、随分気が楽だ。



 阿古麻呂には、いろんな事を教えてもらった。


 阿古麻呂、ありがとう。




    *   *   *




 その後、三虎の部屋に向かう。


 三虎は……、どうだったのかな?

 あたしに、おのこにしかできない魂呼たまよびを、するつもりだったのかな?

 日佐留売は、する、と思っていたようだ。


(どうなの? どうだったの───?)


 そう思うと、赤面し、簀子すのこ(廊下)で一人立ち止まり、モジモジしてしまう。

 三虎の部屋につく。

 三虎は寝床で上半身を起こし、木簡もっかんに目を通していた。

 皆に挨拶とお礼を言ってきました、と言うと、


「良かったな。」


 と口もとに柔らかい笑みを作った。


 妻戸つまとを入ってすぐのところで、古志加がモジモジしていると、


「ホラ。こっち来て顔を見せてみろ。」


 と平坦な声で三虎が言い、寝床のそばに行くと、じっと古志加の顔を見上げる。無表情。


(三虎は、あたしをどうするつもりだったの……?)


 三虎の魂呼たまよびの言葉は強力だった。

 三虎は、言葉の魂呼びで、押し切るつもりだったのかもしれない。

 でも違うかもしれない。

 あたしは、寝てる三虎から唇を奪う必要はなかったのかもしれない。

 訊きたい。


(だけどこんな事、どうやって訊けと……?!)


 そうめまぐるしく考え、

 フンフン鼻息を荒くしてると、


「もうちょっと……。」


 と左手で手招きをされ、顔を下に下げるよう指示された。

 大人しく従うと、三虎の左手が額に伸びてきて、ビシッと額を指で弾かれた。


「あ!」


 古志加が驚いて目をしばたたくと、


「おまえ、さっきから変な顔!

 にわとりが泥沼に足を突っ込んで、驚いてるようだぜ。

 まあ、元に戻って何よりだな!」


 と三虎が目を細めて、おかしそうに、意地悪く笑った。


「うう……。」


 古志加は情けない声をだしてしまう。

 それはどんな顔ですか。


「もう行け。難隠人ななひとさまに、三虎は無事にできました、と伝えておけ。」

「わかりました。」


 しおしおと古志加は部屋を出る。




     *   *   *




 日佐留売が、左肩の怪我が治るまでは、女官として働くように、と言ってくれた。

 女官の仕事の合間に、時々、三虎の部屋に顔を出す。

 三虎の怪我はあたしより治りが遅い。



 大川さまから、褒賞を塩十壺いただいて、とても嬉しかった。

 大川さまは、本当に普通。

 何事もなかったみたいだった。


 そして年が明けた。


 一月。


 辰の刻。(朝7〜9時)


 あたしは今、三虎の部屋にいる。

 耳には紅珊瑚が輝く。

 

「んで、何だったの、アレ。」


 倚子いしに座り、灰色の須恵器すえきに満たした白湯を口に含みつつ、三虎が言う。

 自分のぶんもちゃっかり白湯を入れ、日佐留売の持たせてくれた米菓子をつまみつつ、


「アレとは?」


 と古志加は言う。


「兄の。布多未ふたみの。また腰砕けにしてやるよ、って。」


 と少しイライラして三虎は言う。


「うっ。」


 古志加はうめき、顔を赤らめ、うつむいてしまう。


「い、言いたくありません。」


 三虎が少し目を見開いて、


「言え。」


 と言い、だがすぐに、机の上に米菓子を持って残された古志加の腕を掴み、


「聞きたい。」


 と平坦な声で言った。


(……そんな言い方、三虎がするなんて。)


 と古志加は驚き、顔をあげ、まばたきをする。

 三虎は無表情な、でも真面目な顔で古志加を見、


「聞きたい。」


 ともう一度言った。

 古志加は口もとをきゅっと一回すぼめてから、


「あ……。」


 と声をもらした。


「あの……、難隠人ななひとさまに、布多未が剣を教えてて、あたしと布多未で試合をしてみせたんです。

 それが終わってから、その……。」


 一回古志加は息を吸い、

 耳まで真っ赤にしながら、


「布多未がいきなり耳元で、おまえ仕合ってる時すげぇ色っぽい、と言って、あたし、びっくりして腰が抜けました。

 あ、あれは、何だったんでしょう?」


 三虎は掴んだ腕を離し、


「ふうん……。」


 とだけ言った。

 沈黙が流れた。

 あれは何だったんでしょう、に、答えてくれる気はないみたいだ。

 まだ少し顔を赤くして、古志加は静かにもぐもぐと米菓子を頬張る。

 三虎は今、こちらを見るでなく、遠い目をして、白湯をすすっている。


「三虎はどんなお菓子が好きなの?」


 古志加こじかは唐突に聞く。

 そうだ。あたしは三虎のことを全然知らない。

 三虎はこっちを見て、


「そうだなあ、豆菓子。」


 と言った。


「へえ。どういうところが?」


 と古志加が笑顔で言うと、


「大川さまがお好きだから。」


 と無表情に言う。

 すごい理由だ、と古志加は力が抜ける。


わらはの頃、時々、広瀬ひろせさまが気まぐれに、大川さまに豆菓子をくださることがあった。

 甘葛汁あまかずらじるがまぶしてある、甘い、高級なやつさ。

 それをもらうと、大川さまは嬉しそうに、必ず、一緒に食べようと言ってくださった。

 本当に時々、一年のうち、四回くらいさ。

 そもそも広瀬さまは、大川さまに物を下さる方ではなかった。

 あんなに、物にあふれているのに、心が……。」


 そこで三虎は言葉をのみ込み、


「とにかく、そんな貴重なものを、必ず、大川さまは一緒に食べさせてくれた。

 だから、豆菓子が、大好きだ。」


 と静かに三虎は言った。

 本当に、大川さまが大好きなんだね、

 と古志加はそっと微笑む。


 また静かな時間が流れる。

 三虎は黙って白湯を飲む。

 二人きり。

 目の前には穏やかな三虎がいる。

 薄く浅香あさこうと、薬草と、米菓子の香ばしい匂いが漂い、古志加は、


(ああ、良いなぁ。)


 と思う。

 手にとる須恵器すえきの杯は、土師器はじきより粘り強い土で焼かれている。

 須恵器すえきの方が丈夫で、高価だ。

 ただの郷人さとびとならまず手にとることはあるまい……。

 細かく、少しざらりとしてる土の口触りを楽しみながら、古志加もちびりちびりと白湯を飲み、三虎の顔を見る。


 ちょっと神経質そうな眉。

 いつも不機嫌そうな目。

 意地悪そうな唇。

 なんて格好いいんだろう。

 武に秀でたものらしく、雰囲気が凛々しい。

 

 今なら訊けるだろうか。


 魂呼たまよびのことではない。

 まさか、さ寝するつもりだったんですか、なんて訊けない。

 そうではなく、訊いてみたいことがあった。


 魂逢たまあい。


 女官部屋の皆の話で知っている。

 慕い合う男女が、同じ夢を同じ時間に見る不思議。

 魂逢たまあいを重ねると、うつつでも二人は結ばれるという。

 素敵だ。


 皆顔を赤くして、きゃあきゃあ言うが、


「じゃあ、その夢見たことある人……?」


 と聞くと、すっと静まり、皆下を見る。

 そんなに良くある話ではないようだ。

 あたしだって、三虎の夢なら、時々見る。


 十六歳の三虎。

 二十二歳の三虎。

 いろんな年の三虎……。


 でもその中で、一つ、明らかにいつもと違う夢を見た。

 去年の七月。

 阿古麻呂に強引に口づけされて、ずっと泣きながら寝た夜だ。


 その夜見た夢は、夢の手触りが違った。

 自分が風になったように雲間を滑り、三虎を求め、三虎を見つけた。

 その夢で会った三虎は、いつもの三虎より、本物っぽかった。

 なんというか、ふてぶてしさが。

 そしてなんと……。

 三虎の方から、あたしに口づけしたのだ。

 夢を見たあとも、ずっとそのことを覚えていて、あたしはポ───ッとした気持ちになった。

 最初から最後まで、不思議な夢だった。


 あの夢を三虎も見ていた、なんて事はないだろうか。

 まさか、と思いつつ、あまりに不思議すぎて、もしかしたら有り得る、と感じる。


 あの夢を、三虎も見ていたら、いいな。

 そしたら、あたしは……。


 白湯を飲み終えた須恵器すえきの杯を、ことん、と机に置き、古志加はそっときりだす。


「三虎、あたし、夢を見たことがあるんです。

 あの……、三虎の……。その夢は……。」


 そこで三虎は一回まばたきをし、目をそらし、唇をちょっと突き出し、むくれたような顔をした。


(えっ?)


 驚いて古志加は話を中断してしまった。

 これはこれで、難隠人ななひとさまのむくれた顔に……。

 というより、わらはねた顔に似てる。

 そして、三虎の顔に、少し朱がさした。


(こ、これはどういう表情……?)


 古志加がはかりかねていると、三虎が、


「夢といえば、おまえの母刀自ははとじの夢に助けられた。」


 と、ぱっと倚子から立ち、奥の厨子棚ずしたなに行き、小さな引き出しを開け、すぐ戻ってきた。

 手には小さな、ちょうど片手におさまる白い貝が載せられている。

 二枚の貝で、ぴったりとふたが閉じられている。


「これをオレから、おまえの母刀自に。オレからの礼だ。夢で朱色の麻袋を持っていたんだろ。きっとこれも喜ぶ。

 大川さまに使うものと同じ、貴重な、宇万良うまら(野イバラ)の練り香油だ。

 そのまま墓に埋めてやっても良いが、あまり貴重なので、一年かけておまえが使って、残りを埋めたらどうだ?

 おまえにやるから、好きにしたら良い。」


 と平坦な声で言った。

 そして無表情に、白い貝に梔子くちなし色の麻袋をそえて、手渡してくれた。


(何だったんだろう、今の見たことのない表情は……。)


「ありがとうございます。」


 とぴったり重なった白い貝の、上の貝を持ち上げ、中を開くと、黄色い練り香油があり、ふわっと宇万良うまらの良い香りがした。


 そう、大川さまは、この宇万良と、香木の奥深い香りが入り混じった、とても良い匂いがする……。


 自分で使うか、そっくり母刀自の墓に埋めてあげるか、迷っていると、


「三虎、入りますよ。」


 と部屋の外から薩人さつひとの声がした。



















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