桂皮の女、其の四

「えっ?」


 古志加こじかに真剣を与え、己は七尺(約212cm)のかしの棒を手にとった大川おおかわに、古志加が戸惑いの声をあげた。


「樫の棒は一つしかない。」


 三虎の恋うてるおみなに、私が誤って傷をつけるわけにはいかない。


「心配は不要だ。やわな鍛え方はしていない。」


 己の背より少し高く、良くみがかれ、黒光りする樫の棒を、するりと構える。

 古志加が無言で剣を抜き、鞘を落とした。

 間合いをとり、樫の棒と剣のさきを軽く打ちつける。

 開始の合図。

 古志加が、ふぅ───っ、と無言の気合を発し、

 一歩踏み込み、上から剣を振り下ろしてきた。

 受け止め、弾く。

 すかさず、右胴を薙ごうとしてくる。


(ふむ、良い速さ。)


 大川は軽く樫の棒を動かし、受け流す。




    *   *   *




 古志加は地を蹴り、するどく左上から斬りかかる。

 とん、と小さく大川が後ろ足を一歩引き、

 軽く樫の棒で受け流される。

 やはり、腰が全然ぶれない。

 そして、足が強い。

 姿勢が真っ直ぐのまま、ぐっと沈み、

 低い軌道で樫の棒を古志加の左下から、

 すくうように差し込んでくる。

 上手に受けないと、剣を持っていかれる!

 良く狙い、剣をあわせ、弾く。

 大川は良く動きはするが、

 動きは最小限で、足さばきはあくまで軽やかで、

 腰が、すっと大地に突き立っている。

 綺麗だ。

 舞のよう。樫の棒なのに! 

 ほこの戦いかただ。

 棒の先の方で戦うのに、大川さまは慣れている……。

 あたしとは全然違う。

 あたしは、速さと。

 荒々しさが好きなんですよ、大川さま。


「はっ!」


 剣と樫の棒を交差し、

 ──もっと速く。

 足を狙い、くるりと大川が舞い、

 ──もっと荒く。

 素早く大川と位置を入れ替え、

 ──速さに乗れ。


「うふ……。」


 高揚に笑みがもれ、

 右から剣を打ち込み、

 弾かれ、

 左回し蹴り。

 顔。

 当たらない。

 裳裾もすそがはためき、大川の顔をかする。


(まだまだ!)


 速さをあげ、右の回し蹴り。

 古志加の笑みが止まらない。




     *   *   *




(今、裳裾が顔かすったんだけど───!)


 顔には全くださず、大川は動揺する。

 おみなの裳裾が顔をかすめる状況ってなんだ。

 はい、深夜の寝静まった頃、二人きりの稽古です。

 わけがわからない。

 何故こんなことに。

 さっきから、剣を振り、身を回しながら、頬を染め、生き生きとこの女は笑っている。

 目の輝きかたが尋常ではない。

 目から強い気が放たれ、

 剣速けんそくが早まるほどに、

 足捌きが早まるほどに輝きが増す。

 その上で、


「うふ……。」


 と笑うものだから、壮絶だ。

 だがその全て。

 剣も蹴りも、全て樫の棒で、身のこなし一つで、

 大川は受け、捌き切る。

 当たらない。

 大川も樫の棒を打ちこみ、薙ぎ、

 隙あらば掬い上げようとする。

 大川の動きは軽いように見えるが、的確に古志加の甘いところをついていく。

 体力の使い方が全然違う。

 じきに古志加が肩で息をし始めた。

 それでも、つややかに、嬉しそうに笑い、


「!」


 下から左足を掬い上げようとした大川の棒を、古志加の左足が、

 だん、

 と踏み込んだ。

 地に樫の棒がめり込む。

 瞬時、大川の動きが止まり、

 大川より背の低い古志加と顔の高さがあい、まともに目が会い、


「は。」


 と短い色っぽいため息をついた古志加が、

 笑みを消し、ひそめた声で、


「あなたは心のよろいをもっと脱いだほうが良い。

 そうすれば……。」


 と言った。


「黙れ!」


 瞬間的に怒りが噴き出し、大川は怒鳴った。

 さっと棒を引き抜き、

 渾身の力でバンと古志加の剣を打ち、


「うっ……!」


 よろけた古志加の右腕を、左腕でねじってひねり上げ、押し下げた。

 腕を己の腰にあてる形になった古志加は、大川の力に顔を歪め、だがまだ震える手で剣を離そうとせずもがくので、もう一度強くねじり上げ、ぐいと身体を大川の方に引いた。


「……!」


 古志加は剣を取り落とし、

 腰から肩まで古志加と大川が密着した。

 大川が怒りで顔を真っ赤にし、古志加の顔を見下ろす。

 大川がまだ力を緩めないので、古志加は顔を歪めたまま、腕の痛みに震え、大川を見上げ、


「出過ぎたことを口にしました。

 お許し下さい。」


 と許しを請うた。

 二人の顔が近い。


(なんと無礼な……!)


 怒りでカッカとした大川は、古志加の顔を見た。

 まともに目を覗き込んでしまった。


(あれ……。)


 大川は目をみはった。

 その目からは、先ほどまでの燃え立つような強い輝きが急速に消えて行く。

 お許しください、と柔らかく震えた唇からは、甘い蜜の香りと、刺激的で目を覚まさせるような桂皮の香りが、強く匂い立つ。


(高級な薬のはずだが。

 何故この女官からこんなにも香るのか……。)


 眉は大川の力の強さに歪められているが、その表情は静かに大川が手をほどき、稽古の終了を宣言するのを待っている。

 それだけ。

 大川を見るのに、なんの感情も浮かんでいない。

 大川の知る女官の顔ではない。

 食事の世話をするときは、当たり障りのない女官らしい笑顔を浮かべ、まわりに溶け込んでいるし、

 難隠人ななひとと遊ぶ時は、わらはをあやす元気な笑顔だ。


 しかし今、その笑顔は剥がれ落ち、

 無表情。

 夜空の暗さと月影の明るさを瞳に落としこんだような澄んだ瞳に大川は映り込んでいるのに、

 何も求めていない。

 大川を見るおみなは、いつも媚やら、何かの欲やらを、脂ぎった笑顔に練り込んで見てくるのに。

 このおみなは違う……。


 大川の中から怒りが引いていき、

 戸惑いが生まれる。

 大川が無言で、力は緩めてくれたが、まだ離してくれず、結構その時間が長いので、


「……?」


 古志加がいぶかしげに大川を見上げる。


 今は平坦になった目の輝きが、剣を持たせれば、どんなに強く輝くか、もう大川は知ってしまっている。


 なら、このおみなをこのままねやに引き入れて、腕の中でもう一度、その目の輝きを燃え立たせてみたい……。


 大川の右手から樫の棒が落ちた。

 かわりに、古志加の顎をとらえる。

 上向きのまま古志加の顔を固定し、

 大川の顔がゆっくりと、

 古志加の顔に降り、

 大川が目を半分閉じる……。


「へ……?」


 と古志加はつぶやいた。





「あっ!」


 大川は短く叫んで、すぐに古志加から手を離し、慌てて古志加から離れた。


(三虎の恋うてるおみなに、私は何を……!)


「あああ! 違う、違うんだ!」


 大川は赤い顔で首を振り、すぐさまきびすを返し、自分の部屋に逃げ込み、急いで妻戸つまとをタンと閉めた。


「あれ? 大川さま? ここに置いておきますよ。本当に、有難うございました。味澤相あじさはふをや(良い夜を)。」


 と、大川の部屋の外に剣と樫の棒を置き、古志加が去っていく足音を、大川は黙って寝床でふすま(掛け布団)を被って聞いていた。




 そして初めて知った。

 恋うてもいないのに、相手の魅力にあてられて、思わず手が伸びてしまうのが、どういうことかを。


(これは怖いな……!)


 三虎があんなに苦悩し恋うているのが、ちょっとわかった。

 私はもう少し、おみなを憎々しく思うのをやめようと思う。


(ああ、びっくりした。)


 深夜ということもあって、何か夢の中の出来事のようだった。

 今宵の古志加はいつもの古志加ではなく、桂皮の香りを身にまとい、宵闇よいやみから滑り出てきた、別の何かのように思えた。

 ………きっと、

 比多米売ひたらめと同じ宵闇に住んでるおみな


 うわ──、怖──い!

 夢、これは夢だ………。




     *   *   *




 ん───、ちょっと右腕が痛い。

 滅多に怒らない大川さまを怒らせてしまった。

 ごめんなさい。

 三虎に知れたら、あたしは斬首だ。

 間違いない。


 でも、大川さまは、最後は許してくれたように思う……。

 どうしよう、明日になって、いきなり衛士団を辞めさせられたら。


「そしたら、どうするかなぁ……。」


阿古麻呂あこまろを頼ろうかなぁ。)


 古志加は、はぁ、とため息をつき、でも、剣の稽古は楽しかった、と思った。

 大川さま、強い。

 背筋がずっとぶれない。

 棒を打ち下ろす時も真っ直ぐで、見てて本当に綺麗。

 あれは舞の鍛練がないと無理。

 それにしても、顎をとられ、顔をじっと見られたのは何だったんだろう?

 けっこう長い時間で、大川さまの顔が、ゆっくり近づいてきてた。


「う──ん。」


 と古志加は首をひねり、


「あっ。」


 と思い当たる。

 あたしは今、両頬が青あざで腫れ、口の端と額に瘡蓋かさぶたがある。

 顔をこんなに無惨にした女官は、さぞや珍しかろう。

 あたしだって見たことない。

 あまりの物珍しさに、じっと近くで見てみたくなったんだ。


(ひどい!)


 あたしだって、これでもおみななんだから!


 古志加はプリプリ怒り、


 三、三虎の部屋に戻り、三虎を襲うは、絶対に無しだ。と思った。

 この顔で無理。








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