桂皮の女、其の二

 井戸で冷えた水をガブガブと飲み、湯殿で流れるお湯に一人、身をひたす。

 夜の闇に、もうもうとお湯から白い湯気が立つ。

 あちこち傷だらけだが、お湯は気持ちいい。

 こんな夜でも、可我里火かがりびが焚かれ、自由に湯殿が使えるのは本当にありがたかった。


 ここに来るまで、一人にも会わなかった。

 ちょうど衛士の警邏けいらの隙間なのだろう。

 の刻(深夜11時〜午前1時)だ。

 女官や下人や、皆寝静まっている。


 なんだかまだ、少し夢の中にいるようだ。

 まだ少し、己の中の魂がフワフワしているのを感じる。



 あたしは夢の中で、母刀自ははとじに、


「母刀自以外にも、あたし、抱きしめてもらったんだよ。

 すごく嬉しかったの。

 あたしも沢山の人を抱きしめてあげたんだよ。」


 とたしかに言っていた。

 あたしは、十歳まで、母刀自以外に抱きしめられたことはない。

 卯団うのだんに来て、ビックリした。

 皆が嬉しい時、すごく気軽に抱きあって、明るく笑っていることに。

 羨ましかった。

 あたしもあの中に入りたい、と心底思った。

 卯団の皆は、あたしが普通にこまごまと働いていると、時々気軽に頭をなでたり、肩をたたいたり、滅多にないけど、軽く抱きしめてくれることもあった。

 皆には、なんてないことだろうけど、あたしにとっては、すごく嬉しいことだった。


 そしてやっぱり、三虎は特別。


 あたしを助けてくれた雪の日、息もできないほど強く、しっかりと、あたしを抱きしめ、その胸であたしを泣かせてくれた。


(こんなこと信じられない。)


 と思い、ずっと忘れることはなく。

 思い出すだけで、胸が温かいもので満たされ。

 涙がにじみ。

 頭にぼんやりと甘いもやがかかるようだった。


 夜、寝ワラに一人で寝ても、いつの間にか三虎がいて、あたしの背中をポンポンと優しく叩き、あたしを起こさないよう、ゆるい力で抱き寄せてくれるのも、大好きだった。


 あたしは、抱きしめてもらうのが大好き。

 だから、つい、好きだと思った人を、慰めたいと思った人を、抱きしめてしまう。

 嬉しいだろうと思って。


 ……それだけではない。


 あたしは皆のようにはなれない。

 嬉しくて抱き合うのは普通だ、と思って育ってきてる皆と、全く同じ場所に立つことはできない。


 母刀自を亡くしてから、あたしの心には黒い穴がぽっかりと空いて、いつでも必ず心に影を落とす。

 あたしはその影を埋めるように。

 その黒い穴に追い立てられるように。

 過剰に。

 相手に求められていなくても。

 

 いびつだ。

 でも自分では、どうすることもできない。

 黒い穴を埋めることは、できないからだ。

 どんな嬉しいことがあったとしても。

 それこそ、母刀自が生き返りでもしない限り……。




 そして、そんな黒い穴を。

 心の影を。

 そこから追い立てられることによって、自分ではどうしようもなくことを。

 あたしは難隠人ななひとさまにも感じてる。

 難隠人さまもあたしに感じてる。

 だから、あたしは難隠人さまが何をしても許してしまうし、かわいいし、難隠人さまもあたしが好きだ。



 阿古麻呂あこまろにも……、阿古麻呂のことは良く知らないが、目の奥に、似た黒い影を、悲しみの色を、あたしは見たことがある。



 そして、大川さま。

 大川さまの顔を間近で覗き込んだことはない。

 目の奥にどんな色があるかなど、知らない。

 だが、あの方は本当に難しい方で、いつも人当たりの良い笑みを美しい顔に浮かべ、物腰柔らかく、言葉も優しい。

 だから女官皆きゃっきゃ言うのだが、人との間に心の壁をいつもガッチリ作っている。

 優しさ以外、何も見えない。

 おそらく、壁がないのは、生母である宇都売うつめさまと、三虎だけなのではないか、と古志加こじかはふんでいる。

 三虎は乳兄妹ちのとで、すごい世話焼きだ。

 いつもあれこれ気をまわし、大川さまに心の壁を作らせない。


 可哀想なのは難隠人ななひとさまだ。


 大川さまは、あんなに難隠人さまに心を砕き、頻繁ひんぱんに難隠人さまの為に時間を作り、すんごい我儘わがままな難隠人さまを受け入れ、愛そうとしているのに、時々、心の壁を古志加は感じてしまう。


 その、愛そうとしているのに、、が、心の影のせいで、、と、同じ気配がする。

 そう古志加は感じてしまう。

 正解かどうかなんてわからない。

 大豪族のことなど古志加には解らない。

 あのお方は難しい方。



 難隠人さまは、実はすごく良い子で、強い子だ。

 日佐留売ひさるめは、良く尽くしているが、生母ではない。

 大川さまも、義理の父だ。

 幼いながらも、大川さまの心の壁を難隠人さまは感じとっている。

 同時に、大川さまが心を尽くそうと、愛そうとしてくれていることも、感じとっている。

 愛されたい難隠人さまは、大川さまの心の壁ごと、大川さまを受け入れている。

 大好きな父上、と。

 大川さまが奈良に行って不在の間は、不思議なほど多知波奈売たちばなめが心の支えとなっているが、やはり大川さまが上野かみつけのくにに戻っていると、難隠人さまは嬉しそうだった。





 夜の闇で一人お湯につかっていると、どうも色々と考えてしまう。

 湯からあがり、また女官の衣を、左肩をなるべく動かさないように着て、さてこれからどうしよう、と考える。


 一、女官部屋に戻り、寝る。

 深夜に誰か起こしてしまうかもしれないが、おみなとして一番まっとうな道だ。


 二、三虎の部屋に戻り、そっと三虎の隣で寝る。

 結局、あたしが一番とりそうな道だ。


 三、三虎の部屋に戻り、三虎を襲う。

 一番あたしがやりたいことだ……!

 やることやって、布多未ふたみに首を差し出そう。


(ああ、どうしよう……。)


 ずっと誰にも会わず。

 やっぱりどこか夢の続きのようだ、と思いながら、十六夜いざよい月の照らす十二月の冷えた夜を、あたしは歩く。



 ふと、可我里火かがりびの明かりに照らされた、奥まった中庭で、人の気配を感じた。

 無言で、同じ場所でずっと動き続けている気配。


(なんだろう。)


 そっと足音を消し、うかがうと。


 白い夜着の大川さまだった。


 髪の毛は上半分を緩く紅紐べにひもで縛り、下半分の髪は肩に流している。

 かんざしは挿していない。

 胸下まで、真っ直ぐな美しい黒髪がするり、と揺れる。


 大川さまが白い息を吐き、ゆるやかに淀みなく舞っている。

 音はなく、はっ……、はっ……。という大川さまの息と、土を踏む烏皮舃くりかはのくつ(黒革のくつ)の音と、衣擦れの音、可我里火かがりびがパチリと爆ぜる音だけが聞こえる。


 大川さまの舞が見事だった。

 足がぴょんと跳ね、身体が右にいったと思ったら、すぐ左へ。

 足は軽やかに動き。

 だが止めるところはピタリと止め。

 動きは決して急ぎすぎず。

 だが淀みなく。

 緩急をつけ。

 足をたえず動かし、身体が浮き、沈むのに、上半身の安定感がすごい。

 腰がまったくぶれず、背すじは真っ直ぐ、大地を突き刺すように天へ突き立っている。


 大川さまはただでさえ綺羅綺羅きらきらしい風貌であるのに、今、額に薄く汗をかき、全身からうっすらと気を立ち昇らせながら一心に没頭し、見事な舞を踊る姿は、夢の中の天人のようであった。

 福益売ふくますめなら気絶。


(すごいなぁ……!)


 大川さまの剣技は、藤売ふじめを救った時に一度見ただけだが、なるほど、強いわけだ。


 あたしが口をあんぐり開けて、ポ──ッと見入っていると、


「……誰だ!」


 大川さまが舞をやめ、こちらに向け鋭い声をだした。

 なんと声をかけたものか迷い、無言であたしは可我里火かがりびに照らされるところまで、歩みを進める。







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