桂皮の女、其の一

「ん……。」


 暗い部屋で古志加こじかは、ぱっ、と目を覚ました。

 目尻に泣いた跡がある。

 湿っているのではなく、乾いて、パリッとした跡になっている。

 まだ朝日が昇る時間ではないようだが、良く寝て身体がスッキリしている。

 身体が軽い。


 ……母刀自ははとじの夢を見た。

 そのあと、ス──ッと体から力が抜けるように深い眠りに落ち、夢も見ず、古志加の身体が必要としていた休養を充分にとれた。


 母刀自は、今も、苦しみと恐怖のなかで、泣いていると思っていた。

 でも違った。

 あたしに笑って、と言い、あたしが子守唄を歌えると知って、びっくりしてた。

 そして、一緒に歌えた。

 あたしが衛士になれたことも伝えられた。

 母刀自は今も綺麗で、嬉しそうに笑っていた。

 あれは夢のなかで。

 今も母刀自が恋しいけど。

 あたし一人、恐怖と憎しみにもがくのはやめよう。


 もちろん、母刀自を酷い目にあわせた奴らは憎い。

 今、目の前に現れたら、古志加は八つ裂きにしたくて、たまらなくなるだろう。

 この憎しみが消える日は……、多分来ない。

 でも、知怒麻呂ちぬまろの口ぶりだと、おそらく下人に落とされた郷長も、黄泉にいるのだろう。

 知怒麻呂だって、三虎が倒してくれたではないか。

 あたしは、幸せに、って母刀自に願われた。

 母刀自の願いを無下にするあたしではない。

 夢の中だけどね……!


 と、そこまで目を開け、身体を動かさず、パチパチまばたきしながら考えた古志加は、ゆっくり首を動かす。

 この見知らぬ天井はもちろん。

 三虎の寝床の天井である。


(ワ──ホ──イ!)


 そして、隣には三虎がいるのである。


(ワ──ホ──イ!!)


 フン、と人知れず鼻息が荒くなってしまう。

 ああ、なんたることだ。

 古志加の寝ている右隣りからは、すやすやと寝息が聞こえる。


(もちろん寝顔見ちゃうよね。)


 起こさぬよう、そっと首を動かし……、暗闇のなかで、三虎の顔が近い。

 うつ伏せに寝てる。

 記憶のなかの寝顔は、少年らしいあどけなさの残る寝顔だったが、二十三歳の三虎は、すっかり大人の……。

 寝顔も凛々しくてかっこいい。

 思わず、はぁ、とため息をつきそうになるが、こらえる。

 ……きっと、ため息一つで起きる。

 ああ、この人、寝る前、


「オレはおまえの強いところが好きだ、古志加!」


 と言ったんだよぉ。


「今夜は朝までこうしといてやる。

 どんな夢を見ようとも、オレが必ず夢から引き上げる。

 どんなに魂を散り散りにしようとも、オレが必ずうつつにおまえを引き留める。

 おまえをどこにも行かさない。

 だから安心しろ。」


 と言ったんだよぉ。


(ハァ────! もう無理……。

 幸せすぎて昇天する……!)


 いけない……!

 命を助けられて、むしろ昇天しかかっている。

 この、滅多にない時間を堪能たんのうしなければ。

 息を詰め、じっと三虎の寝顔を見つめ、


(本当に滅多にない、というか、もう、ないだろうな……。)


 と寂しさが胸をさした。

 三虎はあたしを恋うてないし、怪我が治れば、また奈良だろう。

 恋うても、届かない……。

 そうだ。

 十歳のあたしも、こうやって三虎の寝顔を見つめ、心臓しんのぞうを震わせながら、かっこいい、と思い、言葉にできずとも、


 将来、この人の妻となりたい、と思い、


 ……きっと、叶わないだろう、という予感も胸に抱いていた。


 卯団うのだん下人げにんわらはの扱いから、衣も立派な大川さまの従者の妻になれるなんて、期待はしてなかったよね。

 あっ、つらい。

 あたし、つらい……。

 古志加は唇をつき出した。顔も赤く、


(いいもん。)


 と思った。あたしは、こんな機会を逃さない。

 ……阿古麻呂あこまろに強引に口づけされて、

 ひどい! っていきどおった。

 そう。強引はいけない。

 いけないことだ。

 でも盗んじゃう!

 だ、だ、だって。

 このまま阿古麻呂に強引に口づけされただけで、一生を終えるなんて、あたしの唇が可哀想ではないか。

 三虎はうつ伏せで、唇は寝床すれすれにある。

 思案し、唇のはじに狙いを定める。


(起きないで、お願いだから、起きないで……。)


 潤んだ瞳で、じっと三虎を見つめて、

 十歳のあたし、見てて。

 十七歳のあたしは、あなたにできなかったことをするから、と思い、

 ゆっくり、顔を近づけて、

 声を出さず、口の動きだけで、


「あたしは、三虎を恋うてる。」


 と言い、息をゆっくり止めて、


(えい。)


 三虎の唇のはじに、一瞬、上から唇を重ねた。


 ぱっと離れる。


「む。」


 と三虎は声を出したが、身動きせず、寝てる。


(や、や、や、やったもんね!)


 あたしは、いけない子です。

 ああ……、叫びだしてしまいそう。

 だめ、起こしては。

 顔を赤く、震えながら、まだ息を止め、古志加はそっと寝床を離れた。

 完全に床に両足がついてから、ようやくゆっくり息を吐き、

 かのくつ(革のくつ)を手にとり、

 机の上の黒い釉薬のかかった壺が目に入り、そっと壺を抱え、部屋の外に出る。

 扉を閉め、


「は……。」


 ようやく息をつく。

 冬の凍えた簀子すのこ(廊下)に尻をつき、かのくつを履き、

 あ、あたし内衣一枚じゃない。

 女官姿だ……。と思い、それもそうか、と思う。

 今日は湯殿に行ってない。

 ぐぅ。

 お腹が鳴った。

 遠慮なく、壺の中味のくるみを、ガツガツいただく。

 高級なものを申し訳ないが、今のあたしはすごくお腹が減っている。

 甘く、大量の桂皮けいひの香りにむせそうになりながら、今のあたしはくるみ泥棒みたいだ、と思い、ぽろり、と涙が零れた。


 やってしまった。

 盗んでしまった。

 こんなの、いけないよね……。


 と三虎に悪く思いつつ、

 本当は、もっとしたい、と思った。


 もっと……、三虎が欲しい。


 あそこにずっといたら、あたしはぽんぽ──んと衣を脱いで、あたしより怪我の深い三虎に、襲いかかってしまうかもしれない。

 三虎は目を開け、悲鳴をあげ、あたしは通りかかった布多未ふたみに、


「はあい、斬首。」


 と首をはねられてしまうんだ。

 うう……。

 一瞬ついばんだだけの三虎の唇のはしっこは、ちょん、という感じで、淡い、淡い口づけだった。

 阿古麻呂の口づけは、もっと、唇が動いて、柔らかく動いて、あたしはビックリして、身をすくませながらも、身体の内側がビリッとして、ふっと全身の力が抜けそうになった。


「う……。」


 また、ぽろりと涙が零れてしまう。

 前に、響神なるかみ(カミナリ)の鳴るなか、三虎に干し杏を、


「口で直接押し込んでやる。

 舌ぁ入れるから噛むな。」


 と言われた。そんなことされたら、あたしどう思ったろう?

 一生、わからずじまいだ。


(ないものねだり。あたしのバカ。)


 くるみを壺半分くらい食べたところで、桂皮により吐く息が清涼感あるものとなり、舌がピリピリと辛さを覚え、甘いはずの蜂蜜を感じなくなってきたので、食べるのをやめた。

 壺にフタをして、壁際に音がしないよう置き、


(喉乾いたなぁ……。)


 井戸で水飲んで、湯殿に行こう。

 目が冴えて、このままじゃ寝れない。

 薬草の替えは、この時間では用意できないから、傷口に触れないようにお湯につかろう。

 しっかりした足取りで、古志加は井戸に向かう。











 かごのぼっち様より、ファンアートを頂戴しました。

 かごのぼっち様、ありがとうございました。↓

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093077209777768



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