第二話  我が恋はまさかもかなし

 こひは  まさかもかなし


 草枕くさまくら  多胡たご入野いりの


 おくもかなしも




 安我古非波あがこひは  麻左香毛可奈思まさかもかなし


 久佐麻久良くさまくら  多胡能入利野乃たごのいりのの


 於久母可奈思母おくもかなしも




 あたしの恋は今も悲しい。


 多胡たごの入野の奥へ一人分け入っていくように、


 ずっとこの先も、悲しいのだろう。


 


      万葉集 作者未詳



(「まさか」とは現在の意味。「おく」とは将来の意味。「於久おく」を、入野の、久しい(将来)に於いても、と、読み解く。)



    *   *   *




 三虎が帰ってきて五日後、


 霧けむるたつ二つの刻。(朝7:30)


 群馬郡くるまのこおりの朝の見廻りのあとに、


「おい古志加こじか! 

 これから板鼻郷いたはなのさとへ行くぞ。」


 といきなり三虎に声をかけられた。

 古志加は馬から降りたばかり。


「うん!」


 とすぐ馬に乗りなおす。

 やっと、ゆっくり、話ができる。

 去年、墓参りの時に、年が明けたら奈良に行く、と言われて……、それ以来だ。

 去年、あたしは、奈良に連れて行ってほしい、と言ったのを断られて、驚いて、その後は何も言えなくなってしまった。

 泣くばかりで……。

 今日は、もっと、話を色々できたら良い。


 霧が濃い。

 朝からあたりを真っ白にした霧は、辰四つの刻(8:30)になってもまだ残り、行く手を白くぼかす。

 白い息を馬が駆ける速さで、細く後ろに飛ばしながら、前を行く三虎に話しかける。


「奈良ってどんなところだったの?」

「ああ……。」


 三虎は気乗りしない返事だ。


「もうさんざん話したろ。華やかなところさ。

 大川さまは太政官だいじょうかん少納言局しょうなごんきょくの、大外記たいげきとして立派に働いてらっしゃる。

 重陽ちょうようの宴の時には、即興で立派に漢詩をうたって、態度が立派なもんで、すげぇ目立ってたぜ……!」

「うん。」


 さんざん話をした、と言いながら、大川さまの話になると、三虎は口が滑らかになる。


「まぁ……、この話はいい。」


 おや? 止まった。


「古志加、墓参りが終わったら、話がある。」


 と前で馬を駆る三虎が白い息を吐いた。

 真剣な口調だった。


(なんだろう。)


 古志加の心臓しんのぞうの鼓動が跳ねた。

 奈良に行く話をしたときだって、こんなこと言わなかったのに。


(……あまり良い予感がしない。)


 古志加は押し黙り、三虎も喋らない。

 霧のなか、ただ馬を駆り、古志加の家についた。


(母刀自、来たよ……。)


 本当は、今年あった色々なことを、心のなかで語りかけようと思っていたのに、この後の三虎の話が気になりすぎて、うまく語りかけができなかった。

 ため息を長くつき、三虎を振り返る。


「三虎、終わった……。」


 三虎は腕を組んで、蝦手かへるで(カエデ)の木にじっと寄りかかり、こっちを見ていたが、白い息を吐き、


「う。」


 とちょっと顔をしかめ、右の拳で自分の胸を二回、とんとんと叩いた。そして、無表情に、


「古志加、おまえ、年が明けたら、十八歳だろ。

 おまえ……、誰でもいいから、婚姻を結べ。

 来年からは、つまに墓参りに連れてきてもらえ。」


 と言った。

 その言葉があまりに衝撃で、頭が殴られたように、ガン、と目の前に火花が散った。

 古志加はあえぎ、


「な、なんて……?」


 と口にすることしかできない。


「郷のおみなは、だいたい十八歳までに、つまを持つだろ。婚期を逃す気か。

 誰か気になるおのこはいないのか。」


 三虎はずっと無表情。黒錦石くろにしきいしかんざしがどこまでも黒くきらめく。


「本気で言ってるの……?」


 古志加は目をみはり、震えつつ聞いた。


「ああ、誰でもいいぞ。花麻呂でも、……阿古麻呂でも。」


(……知られてる!)


 きっと、阿古麻呂があたしに妻問つまどいしたことが、知られてる。


「問題はあるが、おまえが良ければ薩人さつひとでも。

 薩人は喜んでおまえをいもとしてくれるぞ。」


(なんて言葉。

 恋いしい人の口から聞くには、あまりにも、あまりにも……。)


 古志加は歯を食いしばり、目をぎゅっとつむり、顔をすこしそむけた。


卯団うのだんは嫌か。他の団の衛士でも良い。」


 残酷な言葉は続く。

 古志加は目を開け、三虎を見た。

 こらえきれず、涙が頬をつたう。


「み、三虎……。」


 あたしが恋してるのは、あなたです。

 言えない。


「郷のおのこが良ければ、板鼻郷いたはなのさとから探すか?」

「三虎……。」


 あたしが妹と呼んでほしいのは、

 あなたです。

 伝わって、と思いをこめて、

 泣きながら、三虎を見つめる。


「板鼻郷が嫌なら、秋間郷あきまのさとから探してやる。

 裕福で、年が釣り合うおのこを。」

「三虎……。」


 あたしが愛子夫いとこせと呼びたいのは、

 あなたです。

 あなたです……。


「持参金なら面倒を見てやる。心配をしなくて良い。一生、楽に暮らせるぞ。」

「三虎!! そんなの望んでない!!」


 声が裏返り、悲鳴をあげるようにそう叫び、古志加はとうとう顔を覆って泣き出した。


「おまえが選ばないなら……。」


 その言葉に古志加は戦慄した。

 その言葉の続きを言わせてはいけない!


「やめて! いない、いない、誰もいない!」


 慌てて顔をあげ、叫び、


(ああ、どうしよう……。)


 このままでは、……きっと、阿古麻呂あたりと婚姻させられてしまう。

 親なしのあたしは、三虎がしろと言えば、従わざるを得ない。

 衛士をやめさせられてしまう。

 それだけは嫌だ。


「三虎、あたし……、衛士をやめたくない。

 あたしは剣が好き。

 剣を教えたもらったこと、クソ親父に唯一、感謝してることなんだ。

 クソ親父は今でも大嫌いで、あたしは親父を憎んでる……。

 でも剣を教えてくれた時だけは、いいぞ、いいぞって褒めてくれた。

 今でも、剣を振ってる間だけは、親父に感謝できる。

 あたしと親父の、細い細い、たった一つの絆なんだ。

 お願い、あたしから、剣をとらないで……。」


 泣きながら、己を両腕で抱き、古志加は懇願した。


「おまえ、婚期を逃すぞ。」


 困ったヤツだな、というように三虎が言う。


「そんなこと……、かまいません。」


 やるせなく古志加は言う。


 この恋は届かない。

 未玉あらたまのこの恋が磨かれて、光ることはない。


「あたし、このままずっと、衛士として、一人で生きます。」

「古志加……。」


 三虎が名を呼んだ。

 だから三虎の顔をじっと見つめて、言う。

 涙が頬を伝い続ける。


おのこの衛士なら、普通のことでしょう?

 おみなであっても、あたしには普通のことなんです。

 あたしはつまを得ない。

 それを望む母刀自ははとじはもういないから。」


 目をそらしてはいけない。

 ここで三虎を説得できなければ、もうあとはない。

 沈黙がおり、三虎と見つめ合う。

 三虎が目をそらした。


「話はそれだけですか。」


 古志加がさっと口を開いた。


「ああ。」

「では先に、帰って下さい。ちゃんと馬は帰します。もう少し……、一人で母刀自と話がしたいので。」


 そう言って、くるりと古志加は背をむけた。


「ここまで、ありがとうございました。」


(……もし、阿古麻呂だったら、ここで背をむけたあたしを、背中から抱きしめてくれたね。)


 突拍子もない考えが、古志加の頭をかすめた。


(でも三虎はさ。

 あたしを恋うてないからさ。)


 しばらく背中で、三虎が戸惑ってる気配がしたが、ややあって、


「ちゃんと馬は帰せ。たたらをや(良き日を)。」


 と三虎が立ち去る足音がした。

 足音は止まらず、馬をつないである栗の木まで行き、馬がいななき……、

 古志加は一人になった。


(ほらね! こうやって、あたしを一人にしちゃうんだよ。

 抱きしめてもくれない……。)


「わああああ!」


 膝からくずれ、母刀自の墓に泣き伏した。



 十歳の、母刀自のいなくなった雪の日。

 三虎がいなかったら、あたしも黄泉に行ってた。

 母刀自以外、誰にも抱きしめられたことのなかったあたしを、初めて抱きしめてくれたのは三虎だ。

 三虎はあたしに全てを与えてくれた。

 魂が散り散りになりそうな夢を見るあたしを、うつに引きとどめてくれたのは三虎だ。

 細い朝の光で、三虎の寝顔をじっと見つめていたわらはの頃から、あたしはもう、三虎に恋していた。

 幼すぎて、己の気持ちに気がつくのは遅れたけど、今から思えば、はっきりわかる。

 あたしは大きくなったら、この人の妻になりたい、と思っていたんだ。

 もうずっと、ずっと……。

 それなのに、誰でも良いから、誰か他の男の妻になれ、なんて、恋いしい人から一番聞きたくない言葉だ。

 この恋は届かない。

 未玉あらたまは未玉のままだ。




 できればいつか、本当に三虎のいもになりたかった。

 吾妹子あぎもこでも。

 それがダメなら、……一夜だけでも。

 ちょっと味の変わったうりを食べるくらいの気軽さでも、あたしを夜、呼んでくれたら。

 それだけで。

 あたしはもう一生、生きて行ける。

 そう、思ってたのに。

 この恋は……。



「恋してます、って言うこともできなかった……!」


 つぶやいて、一人、墓の前で号泣した。

 金のかんざしをつけ、月に照り映えるような笑顔を浮かべる日は、あたしには来ない。












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