第七話  思い足らはし 玉相者


 天地あまつちに  おもらはし 


 魂逢たまあはば  君来きみきますやと……





 天地二あまつちに  念足橋おもいたらはし  

 玉相者たまあはば  君来益八跡きみきますやと……





(思いを天地にあふれさせ、思いの橋をかけ、魂逢たまあいがったら、あなたはおいでになるのかと……)


 

         万葉集  作者未詳




    *   *   *




 古志加こじかは強風が吹きすさぶなか、泣きながら女官部屋に戻り、布団の上でこもにくるまり、一人涙を流した。

 早番の甘糟売あまかすめが帰ってきて、


「どうしたの?」


 と声をかけてくれた。

 なんでもない、が通用する状況ではない。


阿古麻呂あこまろ妻問つまどいされて、断ったら、強引に口づけされて、逃げてきた。」


 と簡潔かんけつに答え、またこもにくるまる。

 その後もずっと泣いた。


古志加こじか……。」


 遅番から帰ってきた福益売ふくますめが、こもの上から、そっと手を置いてくれた。


「福益売ぇ……。」


 古志加はこもから顔を出し、すん、と鼻をすすった。

 福益売は薦の上から、優しく古志加を抱きしめてくれた。






 三虎にも、口づけしてもらってないのに。

 こんな形で。

 口づけしてしまうなんんて。

 あたしは嫌って言ったのに。

 三虎が良かったのに。

 あたしは三虎のものなのに。

 三虎が良いのに……!




 三虎の不機嫌そうな顔を思い浮かべ。

 ───三虎には美しい遊行女うかれめがいる。

 ───三虎はあたしを上野国かみつけのくにに置いていった。

 ───三虎はあたしをおみなと見てくれてない。

 わかってることを、心の内でちゃんと自分に言い聞かせるが。




 三虎がいい。

 三虎が恋いしい。

 今すぐ会いたい。

 あたしのくるみの人に。




 と己の心が大きな声で叫ぶ。

 心が乱れ、


「ひ……。」


 声がもれ、涙が枯れず枕を塗らし、両手で己をかきいだき、


(どうすれば良いの。

 今すぐ会いたい。三虎。)


 いつ眠りに落ちたかも覚えていない。





     *   *   *





 雲間から光がすべり降りてきた。

 違う。

 白い羽衣はごろもを空にたなびかせ、明るい山吹色の衣の……。


 古志加だ。


 目の前に、空から降りてきて。


 とん。


 と着地した。

 己を両手でかき抱き、ぼろぼろと泣いている。

 苦しそうに。

 震え、泣きながら、こちらを見て、唇が、


「三虎。」


 とたしかに動いた。

 だが震え、立ち尽くし泣くだけで、それ以上動かない。


 三虎はため息をついた。


「なんだおまえは。

 オレのところに泣きにきたのか。」


(あきれたな。)


 これは夢だ。

 夢で慰めるなら、こうする。

 三虎は古志加に一歩近づき、顎に指をかけ、自然な動きで。


 唇を重ねた。


 当然あるはずの感触はない。

 夢だ。

 だが顔を離したら、古志加がはっ、と驚いた顔をして、顔を赤らめながら、二、三歩下がって、ぱっと身をひるがえし、音もなく空に舞い上がった。


 羽衣を大きくたなびかせ、逃げて行く。


 やれやれ。帰りなさい。




     *   *   *




「む。」


 三虎は唐突に目を覚ました。

 奈良の、上毛野君かみつけののきみの屋敷の、己の寝床だ。

 久しぶりに上野国かみつけのくにの……、というより、古志加の夢を見た。

 泣いていた。何かあったのだろうか。

 ……夢だ。夢はうつつがそのままあらわれるわけではないが……。

 まだ、七月。

 上野国かみつけのくにに戻るのは、ずっと先だろう。

 確認できるのはずいぶん先だ……。


(荒弓に、便たよりを送るか……?)


「ふ。」


 自分の考えにおかしさがこみあげた。

 木簡もっかんを広げた荒弓を想像する。

 なんと中身は、夢を見たから、古志加の安否を確認しろってぇ……?

 どんな便りだ。バカバカしい。

 早く寝直そう。





    *   *   *




 三虎の夢を見た。

 空をけ、雲にのり。

 ぐんぐん体は前に、すべるように翔ける。

 見つけた。

 三虎。

 恋いしい三虎……。


 するりと雲間を、風を感じながら地上に降りる。

 三虎は暗い黄緑色の衣を着ている。

 黒錦石くろにしきいしかんざしが黒く煌めいて、夢の中でも、三虎は格好良かった。


 あたりには浅香あさこうの香りが満ち、雨上がりの雲間から、光が差しているような空模様だったが、あたりに雨の気配はなかった。


 ───ああ目の前に三虎がいる、久しぶりに三虎が見れた。


 と思い、


 ───その胸に飛び込んでしまいたい。

 でもあたしは、三虎のいもではないから……。


 と躊躇ちゅうちょしていると、三虎があきれたように何事かを言い、多分、


「なんだそのアホづらは。

 そんなので衛士がつとまるのか。」


 みたいなことを言い、その後、何の前触れもなく。


 不意に口づけされた。


 何もかも、ふわふわとして、唇の感触は良くわからなかったが、三虎は目を閉ざしていた。

 だからあれは……、間違いなく、口づけのはず。


 ───三虎が!

 あたしに!

 口づけしたあ!


 と思って三虎の顔を見ると、三虎はいつもの不機嫌顔で、やれやれ、というようにこちらを見ている。


 ───えっ、これって、本当に口づけした後の顔───?!


 とますます混乱し。


 とん、とん。


 と後退あとずさり、そのまま。


 ふわっ。


 と空へ逃げ出した。











 夢から覚めたあとも、三虎の恰好良さにポ───ッとしている。

 すごく良い夢を見た。

 一生に一度かもしれない。

 目尻には泣いたあとがある。

 昨日は、ずっと泣き明かしてしまったから、夢でも泣いていたのかもしれない。

 でも今は。

 幸せな気分が胸に満ちている。

 三虎の夢での口づけが、昨日の出来事を唇の上からかき消してくれた。


(ありがとう、三虎。)




    *   *   *




 朝、卯団うのだんの皆で集り、群馬郡くるまのこおりの見廻りだ。

 阿古麻呂とも会う。


「あ……!」


 と阿古麻呂は古志加に声をかけようとするが。


 プイッ。


 古志加は無言でそっぽをむく。

 馬の世話でもかちあった。


「こ……!」


 プイッ。


 古志加は一言も喋らない。

 剣の稽古の時間……といっても真剣ではないが、阿古麻呂とも稽古した。


「よろしくお願いします。」


 ときちんと言う阿古麻呂に対し、古志加はムスッと無言。

 剣は古志加の一番得意だ。

 だって振ってると気持ちいい……!

 二、三撃、棒を打ち合い、


「ふっ!」


 短い気合とともに、阿古麻呂の腹に右から思いきり打ち込んだ。

 棒でも。

 腰を入れた本気の一撃はかなりの威力だ。


「か……!」


 阿古麻呂が腹を押さえて、地に膝をついた。


 ふーんだ、ふーんだ、いい気味だもんね。



 昼餉の時間。


「古志加……。」


 と阿古麻呂が声をかけてくる。


 プイッ。


 と古志加はそっぽを向いたが、その向いた先で、気遣わしげに、こちらを見ている荒弓あらゆみと目があった。

 ちょっと気まずい。


(ここまでか。)


 古志加は唇をつきだし、不機嫌な顔で、


「阿古麻呂……、こっち。」


 と人の輪から離れた、の林のほうに顎をしゃくる。

 昼餉の膳を持って、二人で林のほうに無言で歩く。

 背中に、これまた気遣わしげな花麻呂の視線を感じた。







「古志加、昨日はすまなかった。謝らせてほしい。」


 と阿古麻呂は謝罪した。


「本当、二度とあんなことしないで。

 ひどいよ。

 あたし、昨日、寝るまでずっと泣いてたんだから。」


 古志加が顔をそむけながら告げると、よっぽど驚いたのか、阿古麻呂が、ひゅっ、と息を吸い、無言になった。

 しばらく無言が続き、


「古志加……。」


 と阿古麻呂が一歩、古志加に向かって踏み出した。


「や。近づかないで。」


 古志加は一歩下がる。


「あたし、阿古麻呂のいもとはならない。

 理解してもらえないと思うけど、あたし、衛士をやめたくないの。

 誰にも言ったことないけど、難隠人ななひとさまにいもにしてやるって言われて、断ったこともある。」

「え……!」


 今度こそ阿古麻呂が絶句した。

 難隠人さまは七歳。

 だが上毛野君かみつけののきみの一人息子が、


いもにする。」


 と言えば、たとえ古志加のような郷の娘でも、将来のいもとして、何不自由のない暮らしが約束されるのは、想像にかたくない。


 誰にも聞かれぬ所でその話をしたのは、難隠人さまの優しさだ。


「わかってもらえた?」


 阿古麻呂がうなだれた。


「もう、あんな事二度としない?」

「……しない。」


 阿古麻呂は、すっかりしおれた顔で、しょんぼりしている。

 反省しているようだ。


(良し。)


「じゃあ、許してあげる。」


 古志加は厳しい顔を緩めた。

 阿古麻呂がパッと顔をあげた。


「本当に?」

「うん。……うまく言えないけど、衛士の濃藍こきあい姿でも、おみなに見えるって言ってもらったの、初めてだったから、あたし、嬉しかった。

 それに、妻問つまどいしてもらった時は、なんだかフワフワした気分で……、やっぱり、嬉しかったよ。

 あたしが、衛士になってなくって、母刀自ははとじが生きていたら、きっと、阿古麻呂を愛子夫いとこせって呼んでたと思う。」


(だって、三虎は……、あたしを上野国かみつけのくにに置いていった。

 きっと、夫婦めおとになるのは無理だろう。

 今あたしは十七歳で……。郷の女は、だいたい十八歳までに結婚する人が多い。

 母刀自が生きていれば、あたしは母刀自を安心させるために、阿古麻呂の申し出を、受けていたんじゃないかな……。)


 阿古麻呂が恐る恐る、近づいてきた。


「古志加……、抱きしめてもいい?」

「やっ!」


 古志加は両手のひらで、阿古麻呂の頬を左右から挟むように、思いっきりばちーん! と叩いた。


いた……。」


 と阿古麻呂がうめく。




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