第二話

 古志加こじかは急いで涙をぬぐう。

 だが、身体の震えと、しゃくりあげる喉は、すぐにおさまらない。


「どうして泣いてるの?」


 阿古麻呂あこまろが訊いた。

 古志加は困って、無言になる。

 阿古麻呂がこちらに歩いてくる。


「どうして、そんなに……、泣いてるの?

 震えてる、古志加。」

「さ……、寒くて。」


 今はいぬの刻。(夜7〜9時)。

 日は落ちたとはいえ、七月。

 そんなに寒くはない。

 だけど、何を言えと?

 古志加は真冬に凍えるわらはのように、両腕で己を抱きしめ、ただ震え、ただしゃくりあげ、阿古麻呂から顔をそらし、うつむくことしかできない。


 唐突に、阿古麻呂に抱きしめられた。


 驚いて、古志加は息をつめる。

 ためらいがちな腕に抱きしめられている。

 古志加の顔が、肩から出てる。

 三虎は背が高い。

 抱きしめられると、肩からおでこしかでない。

 だからいつも、上をむくか、胸に顔をうずめて、息がつまるほど、……強く、あの人はあたしを抱きしめて。


「えっ?」


 やっと混乱した声が古志加からもれた。


「そんなことを言われては、抱きしめてしまう、古志加。」


 耳元に、阿古麻呂の声がし、吐息が耳たぶをくすぐった。


「ひぇ……! ひぇ! 離して……!」


 驚きにあえぎながら、古志加は言う。

 阿古麻呂はすぐにいましめをといてくれた。

 どうしたらいいかわからない。

 とにかく古志加はこの場をあとにしようとする。

 だが逃げ出そうとした時、右腕を阿古麻呂にとられてしまった。


「は、離して……。」


 戸惑いが隠せないまま、古志加が言うと、揺るがない声で、


「古志加、明日、休みですよね? オレもです。明日、市歩いちあるきにつきあって下さい。

 約束してくれたら、離します。」


 と阿古麻呂が言った。

 古志加はとにかくこの場を去りたい。


「わかった。わかったから……。」


 と言う。だがまだ離してくれない。


「明日、女官部屋の前の庭まで、巳三つ(午前11時)に迎えに行きます。……逃げないで。あと、ぜひ、おみなの衣で。」

「ええっ?」


 なんで、郷の女の衣を持ってるって知ってるんだろう?


「いいと言ってくれるまで、離しません。」


 口調が強い。


「わかった!」


 と古志加が返事をすると、右腕をぐいと引っ張られて、握りしめた右手の指に口づけをされた。


「ひゃん!」


 古志加の口から、自分でもきいたことのないような悲鳴がもれた。

 すぐに阿古麻呂は腕を離してくれた。

 月明かりの木立を、古志加は素晴らしい勢いで逃げ出した。


味澤相あじさはふをや(良い夜を)……。」


 阿古麻呂はつぶやき、ため息をつき、つきの木にもたれ、古志加を見送った。





    *   *   *




 卯はじめの刻。(朝5時)


 衛士舎にはいる前に、花麻呂を呼び出し、古志加を抱きしめ、右手に口づけし、明日市歩きの約束を取り付けたことを話した。


「おまえ、あれほどやめろと……。」


 と花麻呂は想像通りのことを口にしたが、


「恋うてるおみなが、一人で辛そうに泣いてるのを目にしたら、己を止められなかった。

 おまえなら、放っておけるか?」


 と阿古麻呂が言ってやると、


「むぅ。」


 と花麻呂は押し黙った。


「だいたい、なぜ古志加を一人で泣かせた? おまえ警邏けいらの組だったろ? お兄さんごっこをやるなら、最後までしっかりやれ。」


 と阿古麻呂が軽くにらみつけると、


「あっは……、ばれたか。」


 と花麻呂は照れて頭の後ろをかいた。

 花麻呂は一人息子。

 阿古麻呂には二つ年の離れた同母妹いろもがいる。花麻呂は、


「オレも同母妹いろもが欲しいなぁ。」


 と良く言っていた。


「あとおまえ……、おまえだって、卯団長うのだんちょう如己男もころお(恋敵)じゃないか。

 オレにだけあきらめろって、あんまりじゃないか?」


 とさらに文句を言ってやった。





 阿古麻呂はまだ衛士見習い。

 塩壺は支給されてないが、


「あいつん……、金持ちですぜ。」


 とこの悪い幼馴染が荒弓に教えた。


「いつもは、正式な衛士になってから連れてくがなぁ、はっはぁ……!」


 とわけのわからないまま荒弓と花麻呂と、あと何人かの衛士に連れられ、遊浮島うかれうきしまに行った。

 花麻呂が符契ふけい割符わりふの番号札)を握りしめ、嬉しそうに声をかけた遊行女うかれめが、すごい美女だったので、びっくりした。

 そこで、荒弓から聞いた。

 荒弓がさんざん忠告したのに、今は奈良にいる卯団長の、たった一人の吾妹子あぎもこに、花麻呂は勝ち目のない恋をしてしまっているのだと。


「だからもう、莫津左売なづさめと遊ぼうとおまえはするなよ。

 わけがわからん事態になる。」


 と荒弓はため息をついていたが、

 何より引っかかったのは、勝ち目のない、という表現だった。

 花麻呂はああ言うが、実は花麻呂の家も金持ちだ。

 もちろん郷の良民としては、という意味だ。

 石上部君いそのかみべのきみなどの名家とは比較にならない。

 だが花麻呂は、笑顔が爽やかで、性格も男らしく、明るく、つきあっていて気持ちの良いヤツだ。

 たしかにあの遊行女もすごい美女だったけど、


「なんで、はじめから、勝ち目のないって決めつけてるんですか?」


 つい、生意気にくってかかってしまった。


「おまえ、幼馴染だもんな。」


 と荒弓は気を悪くした風もなく笑い、


「相手が三虎だからさ。」


 と一言だけ言った。

 それが全ての説明となる、とでも言うように。

 話はそこで終わった。





「あ、ああ……。」


 と花麻呂はギクリとしたように両目を見開き、


「ああ、まぁ、わかるよな……。」


 とさらに頭の後ろをかいた。


「そうだ。オレにとっても如己男もころお(恋敵)だ。」


 と観念したように言い、だが、うろたえた表情をすっと引っ込め、心から友を心配する顔で、花麻呂はこちらを見た。


「ただ、おまえは、三虎と一緒にいる時の古志加を、まだ見たことがない。あれを見たら、とても……。」


 そこで花麻呂は言葉を切り、目をそらした。


「言うだけ野暮やぼだな。

 もし、古志加の心をつかむことができたら、必ず幸せにしてやってくれ。泣かせるな。

 卯団うのだん皆の女童めのわらはだからな。」


 と言って、花麻呂はちょっとだけ笑った。


「ああ、もちろん。……うけひする。

 古志加の心を得られたら、幸せにする。

 泣かさない。」


 と阿古麻呂もまっすぐ目を見てこたえる。







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