第十四話   藤売、玉限る。

 古志加こじかはすぐに女官の仕事に復帰した。

 藤売ふじめはまじまじと古志加の顔を見て、


「あなた、もう良いの……?」


 と訊くので、


「左腕は傷がありますが、平気です。」


 とニッコリ古志加は返した。


「そう……。あたくしのせいで、怖い目に合わせたわね。」


 珍しく、しおらしく藤売が言う。


「そうです。もう絶対、池に物を落とさないで下さい。」


 眉根を詰めて古志加が言うと、


「そうじゃない! 賊に襲われたでしょう!」


 と藤売が憤慨ふんがいした様子で言う。


「怖くはありません。手練てだれと戦えて、良い経験となりました。」


 とけろりと言うと、藤売は信じられないものを見るような目でこっちを見てきた。

 なんでかな?




     *   *   *




 とりはじめの刻。(夕方5時)


 その夜の夕餉ゆうげ

 日佐留売ひさるめ多知波奈売たちばなめの世話のため、自分の部屋にいたが、大川さまは、宇都売うつめさまと、難隠人ななひとさまと、藤売さまと一緒に食事をした。

 三虎もいる。

 古志加は食事の用意をしながら、三虎を盗み見ていると、三虎と目があった。

 三虎は一瞬、笑ってくれた。

 軽く笑っただけだったが、自然な微笑みだった、と思う。

 三虎はいつもムッとした表情をしているが、今の微笑みは、柔らかい感じだった。

 それがあたしに向けられたものであることが、あたしは嬉しい。

 と、古志加は胸がほんのり温かくなった。




     *   *   *




 食事が終わり、大川たちにくつろいだ雰囲気が広がった頃、難隠人が、


「ぜひ藤売さまに差し上げたい物があります。」


 と言った。浄足きよたり文手箱ふみてばこを難隠人にわたす。


「あら、何かしら?」


 とニッコリ、美しく、だがよそよそしさを感じる笑顔を浮かべた藤売の目の前で、にじり寄った難隠人が文手箱を開けた。

 中から無数のかへるが勢いよく飛び出した。


「きゃ、きゃあああ!」


 と藤売はひっくり返り、


「うう……ん。」


 と宇都売も後ろに倒れ、


母刀自ははとじ!」


 と大川が慌てて宇都売を支える。

 女官たちがいっせいに、

 きゃあ、きゃあ、

 と悲鳴をあげる。

 藤売はひっくり返った己の額に、己の胸に、


 ───けろけろ、けろり、


 と鳴くかへるが乗ったのを感じ、悲鳴をあげながら腕をがむしゃらに振って、起き上がろうとした。そして床に手をついたときに、

 ぬるり。

 とおぞましい感触を手に感じ、後ろ───つまりひっくり返った藤売の頭の上の向こうからも、


 ───けろけろ、けろけろ、


 何匹もかへるが飛んでくる気配を感じ、ぞっとした。


(触っちゃった! 触っちゃったわああ!)


 気がつけば、後ろにも文手箱を開けた浄足が立っていて、難隠人が、


「見たかあ!」


 浄足が、


「これが……。」


 二人合わせて、


「古志加のかたき!」


 と叫んだ。


「クソガキ───ッ!」


 あられもない言葉が藤売から飛び出した。

 立ち上がり、目の前で逃げもせず、堂々とこちらをにらみつけている憎らしいわらはの頬を、右手で思いきり張り倒した。

 六歳のわらははよろめく。


「許さなくってよ!」


 左手でうつむいた童の頬をすくい上げるように平手打ちする。


「うあっ……。」


 難隠人の口から声がもれ、よろけ、尻を床についた。

 蛙がぴょんぴょん飛び跳ねるなかで、浄足が難隠人の前にさっと片膝をつき、両手を広げ、こちらをギリリと睨みつけた。


(───可愛げのないガキ!)


「この!」


 足が出た。

 裳裾もすそをつまみあげ、おのこ蹴鞠けまり遊びをするように、浄足の腹を蹴り上げ、一瞬、浄足の体が浮いた。


「あうっ!」


 足りぬ。左手を振り上げ、


「やめなさい!」


 振りかぶった左手を掴む手があった。

 大川だ。

 肩で息をしながら振り返ると、大川がいつになく厳しい顔で立っている。


「あなたは母刀自にはなれない。河内国かわちのくにへ帰りなさい。」


 大川が冷たく言い放った。


「……?」


 藤売は意味がわからず、眉をひそめる。


「……あ、うぇっ、あ……!」


 浄足がえずき、吐いた。


「浄足!!」


 難隠人が慌てて背中をさする。


(汚い。裳裾にかかるじゃない。)


 藤売は思いきり顔を歪めて二歩、ひいた。


「あなたを妻とはしない。

 明日にでも河内国へ帰れ!!」


 大川が手を離し、初めて怒鳴った。

 藤売は大川の方に身体をむけ、怒りのあまり歯をガチガチと噛み合わせながら、


「あたくしを、このあたくしを……。」


 とあえいだが、

 大川は強く、冷たく、

 嫌悪の表情を浮かべて藤売を見据えている。

 揺るがない。

 藤売は肩を震わせ、目尻に涙をため、両手を胸の前で握り、強く揉みしだきながら、


「……あなたに、手をつけられたって、人に言うわ!」


 と言った。

 大川は、すっと目の冷たさを増しながら、


「真実はあなたが一番良く知っているはずだ。

 好きにしなさい。」


 と言い捨てた。

 藤売の肩の力が抜けた。

 手もだらんと降ろし、顔からも力が抜けた。


「そう。」


 無表情になった。


「そう。ならもう、いいわ。あたくし、明日。河内国へ帰ります。もう田舎はたくさん。」


 言うやいなや、ぱっと身をひるがえし、

 ぴょんぴょん飛んでるかへるを踏まないように注意しながら、

 藤売はさっと自分の部屋に戻って行った。

 慌てて古志加と甘糟売あまかすめが後を追う。




    *   *   *





 玉限たまかぎる  かさなりて  おもへかも 


 むねくるしき  ふれかも  こころいた


 すゑつひに  きみはずは  わがいのちの  


 けらむいわみ  こひつつも




 玉限たまかぎる  日累ひもかさなりて  念戸鴨おもへかも


 胸不安むねのくるしき  戀烈鴨こふれかも  心痛こころのいたき


 末遂尓すゑつひに  君丹不會者きみにあわずは  吾命乃わがいのちの


 生極いけらむきわみ  戀乍こひつつも




(*たまかぎる……魂が千々ちぢに砕けてしまいそうな日々を重ね、あなたを思う。


 はげしくあなたを恋い慕うから、胸が苦しい。


 心を痛めた末、ついに逢うことが叶わないあたくしは、極限までも、恋い続けながら、生きていくのでしょう。この命ある限り……。)





      万葉集  作者未詳




    *   *   *






 あたくしの、儚い恋は、蜉蝣かげろうの羽根が破れるように、破れてしまった。




 夜。藤売は枕を静かに濡らしながら、今日ぐらいは、その名を口にすることを、自分に許す。

 少しだけ身じろぎし、両手を口にあて、その名を大事に、守るようにして、


他戸おさべ皇太子さま……。」


 ささやき、どうしても気持ちがこらえきれず、もう一度、


「他戸皇太子さま……。」


 口にし、


「…………。」


 もうそれ以上は何も言わず、ただ声を殺して泣く。

 恋うても、もう一生、逢うことはないお方なのだ。

 藤売は、夢で逢えたら、などと思わない。

 魂逢たまあいが成っても、うつつで逢えることは、もうないお方なのだ。

 夢で逢えて、うかうか喜んで、何になろう……。

 烈しい炎のような恋だった。

 あたくしは、一生忘れることはない、と思い、実際、そのことをひしひしと感じている。

 命の極みまで、あたくしはあのお方を恋うて行く。


 あとからあとから、涙が伝う。

 今日、無惨に破れた恋に、涙が止まらない。





    *   *   *





 翌朝。

 卯三つの刻。(朝6時)


 本当に藤売は荷造りをし、これから河内国へ発つ。

 古志加は荷造りをしながら、


「いいの……?」


 と訊いてしまった。

 昨日、自室に戻ってから、藤売は泣いていた。

 静かに、泣き声ももらさず、ただハラハラと泣いていた。


「古志加。」


 荷造りを家令に話していた藤売は、ふっと艶のある唇で笑い、


「昨日、話しの途中だったわね。

 なぜ大川さまなんです、っておまえは訊いた。

 そしておまえは、自分の心を話してくれた。

 だからあたくしも話すわ。」


 ちょっと唇を舌でなめし、


丁未ひのとのみの年(767年、5年前)、東大寺で、大川さまを見たの。

 すごく素敵で、立って歩いてるだけで、あたりが輝いているように見えたわ。不思議よね。」

「わかります。」


 古志加は即答した。

 おみな二人は目線をかわし、ふふ、と笑った。


「それであたくしは、なんとしてもって思って、どうしたと思う?

 み仏に捧げるはちす(蓮)の花をちょうど手に持っていたの。

 人波をぬって、大川さまに近づいて、わざと転んで、花を頭の上から散らせたの。

 頭に花びらを載せて、あの方、目をパチクリさせてたわ……。」


 ふふふふ、と藤売は幸せそうに笑った。

 今までで一番、幸せそうに。

 思い出の中の大川さまは、あたしのくるみの人の思い出のように、胸のなかの深い底で、清く、美しい清水のように、心を潤し続けているのだろう。


「それで、ちょっとだけ喋って、名をききだして……。

 でもあの方、もう、覚えていらっしゃらなかったわ。」


 ふっ、とため息をつき、目を閉じ、また目を開いてから、藤売は遠い目をした。


「それでね、その後、宮中きゅうちゅうにあがってからなんだけど、あたくし、うて恋うて、たまらなく恋うたお方ができたの。

 そのお方、ちょっとだけ、顔が大川さまに似ていたわ。」


 藤売は涙を浮かべ、晴れやかに笑った。


「ねぇ、古志加。持ち物全部奪われて、衣までとられて、何一つ、あたくしの手元には残されていないけど、それでもあたくしの……。

 恋うる心まではれないわ。」

「あたしに抱かせて!」


 古志加はたまらず、藤売に抱きついた。


「あ、あなた何を……。」


 と藤売は古志加の腕の中で身じろぎするが、古志加の力は強い。


「あんた、優しい、可愛い顔もできるんだから、いつもそんな顔をしてるべきだ。」


 遠慮なく古志加は言った。


ひな(田舎娘)……。」


 と藤売は笑った。


「あなたこそ、紅珊瑚の耳飾りを早くつけなさい。

 あなたは見たことがないだろうけど、どんな貴石も、土から出てきただけでは、ただちょっと綺麗なだけの未玉あらたまよ。

 よく磨くから玉となり光るの。

 おみなだって頑張って美しくするものよ。

 あたくしが化粧をしてない顔なんて、あなた見たことがないでしょう……?」


 たしかに、藤売は陽が昇ると同時に、顔に丁寧に化粧を施す。

 それこそが自分の顔、とでも言うように。


「わかった。頑張る。元気で。」


 そう言って身を離すと、藤売は古志加を見つめ、美しく笑ってくれた。

 舌が触れたら、全身を痺れさせるような毒を内に秘め。

 だからこそ、どこまでも艶があり、目が離せないような笑み。

 少し悲しそうに、目がきらきらと光っているのが、他に比ぶべくもない魅力を藤売の笑顔に添える。


 ………あたしが、おのこで、この笑みを覗き込んでしまったなら、一目で恋に堕ちるだろうな、と思った。




    *   *   *




 たつはじめの刻。(朝7時)


 藤売と家令は、護衛に守られて上野国かみつけののくにを発った。

 上毛野君広瀬かみつけののきみのひろせと、大川と、宇都売、難隠人も見送る。

 三虎もいたが、古志加は話すいとまはなかった。

 だが、すれ違った時に、

 おや?

 という顔をされた。

 それはそうだ。

 少しの時間を見つけて、甘糟売に、針で耳たぶに穴を開けてもらった。

 まだ血がでるので、首に麻布をまいてる。

 女官姿に、恰好悪いことこの上ないが、藤売に、見せたかった。

 

 ───紅珊瑚の耳飾り、つけるよ。

 血が止まったら。





     *   *   *




 *玉限るは、玉がかすかに光る、という枕詞と考えられていますが、ここでは、玉…魂、限る…命が限られてしまう、という漢字に込められた思いを掬い上げて、こう訳しました。意訳です。





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