第十七話 藤売、玉限る。
「あなた、もう良いの……?」
「左腕は傷がありますが、平気です。」
とニッコリ古志加は返した。
「そう……。あたくしのせいで、怖い目に合わせたわね。」
珍しく、しおらしく藤売が言う。
「そうです。もう絶対、池に物を落とさないで下さい。」
眉根を詰めて古志加が言うと、
「そうじゃない! 賊に襲われたでしょう!」
と藤売が
「怖くはありません。
けろりと言うと、藤売は信じられないものを見るような目でこっちを見てきた。
なんでかな?
* * *
その夜の
三虎もいる。
古志加は食事の用意をしながら、三虎を盗み見ていると、三虎と目があった。
三虎は一瞬、笑ってくれた。
軽く笑っただけだったが、自然な微笑みだった、と思う。
三虎はいつもムッとした表情をしているが、今の微笑みは、柔らかい感じだった。
それがあたしに向けられたものであることが、あたしは嬉しい。
* * *
食事が終わり、大川さまたちにくつろいだ雰囲気が広がった頃、
「ぜひ藤売さまに差し上げたい物があります。」
難隠人の従者、
「あら、何かしら?」
藤売はにっこりと笑いかけてあげる。
目の前ににじり寄った難隠人が文手箱を開けた。
中から勢い良く飛び出したのは、緑色のぬらりとした───無数の
「きゃ、きゃあああ!」
藤売はひっくり返り、
「うう……ん。」
宇都売さまも後ろに倒れ、
「
大川さまが慌てて宇都売を支える。
女官たちがいっせいに、
きゃあ、きゃあ。
と悲鳴をあげる。
藤売はひっくり返った己の額に、胸に、
───けろけろ、けろり。
と鳴く
「いやっ! いやぁ!
悲鳴をあげながら腕をがむしゃらに振って、起き上がろうとした。そして床に手をついたときに。
ぬるり。
とおぞましい感触を手に感じ、後ろ、つまりひっくり返った藤売の頭の上の向こうからも、
───けろけろ、けろけろ。
何匹も
(触っちゃった! 触っちゃったわああ!)
気がつけば、後ろにも文手箱を開けた浄足が立っていて、難隠人が、
「見たかあ!」
浄足が、
「これが……。」
二人合わせて、
「古志加の
と叫んだ。
「クソガキ───ッ!」
あられもない言葉が藤売から飛び出した。
立ち上がり、目の前で逃げもせず、堂々とこちらを
ぱぁん!
右手で思いきり張り倒した。
六歳の
「許さなくってよ!」
うつむいた難隠人の頬をすくい上げるように、左手で平手打ちする。
「うあっ……。」
難隠人の口から声がもれ、よろけ、尻を床についた。
蛙がぴょんぴょん飛び跳ねるなかで、浄足が難隠人の前にさっと片膝をつき、両手を広げ、こちらをギリリと睨みつけた。
(───可愛げのないガキ!)
「この!」
足が出た。
「あうっ!」
足りぬ。左手を振り上げ、
「やめなさい!」
振りかぶった左手を掴む手があった。
大川さまだ。
肩で息をしながら振り返ると、大川さまがいつになく厳しい顔で立っている。
「あなたは母刀自にはなれない。
大川さまが冷たく言い放った。
「……?」
藤売は意味がわからず、眉をひそめる。
「……あ、うぇっ、あ……!」
浄足がえずき、吐いた。
「浄足!!」
難隠人が慌てて背中をさする。
(汚い。裳裾にかかるじゃない。)
藤売は思いきり顔を歪めて二歩、ひいた。
「あなたと婚姻はしない。
明日にでも河内国へ帰れ!!」
大川さまが手を離し、初めて怒鳴った。
藤売は大川さまの方に身体をむけ、怒りのあまり歯をガチガチと噛み合わせながら、
「あたくしを、このあたくしを……。」
とあえいだが、大川さまは強く、冷たく、嫌悪の表情を浮かべて藤売を見据えている。
揺るがない。
藤売は肩を震わせ、目尻に涙をため、両手を胸の前で握り、強く揉みしだきながら、
「……あなたに、手をつけられたって、人に言うわ!」
と叫んだ。
大川さまは、すっと目の冷たさを増しながら、
「真実はあなたが一番良く知っているはずだ。
好きにしなさい。」
と言い捨てた。
藤売の肩の力が抜けた。
手もだらんと降ろし、顔からも力が抜けた。
「そう。」
無表情になった。
「そう。ならもう、いいわ。
あたくし、明日。河内国へ帰ります。もう
言うやいなや、ぱっと身をひるがえし、ぴょんぴょん飛んでる
慌てて古志加と
* * *
(*
心を痛めた末、ついに逢うことが叶わないあたくしは、極限までも、恋い続けながら、生きていくのでしょう。この命ある限り……。)
万葉集 作者未詳
* * *
あたくしの、儚い恋は、
夜。藤売は枕を静かに濡らしながら、今日ぐらいは、その名を口にすることを、自分に許す。
少しだけ身じろぎし、両手を口にあて、その名を大事に、守るようにして、
「
ささやき、どうしても気持ちが
「他戸皇太子さま……。」
口にし、
「…………。」
もうそれ以上は何も言わず、ただ声を殺して泣く。
恋うても、もう一生、逢うことはないお方なのだ。
藤売は、夢で逢えたら、などと思わない。
夢で逢えて、うかうか喜んで、何になろう……。
烈しい炎のような恋だった。
あたくしは、一生忘れることはない、と思い、実際、そのことをひしひしと感じている。
命の極みまで、あたくしはあのお方を恋うて行く。
あとからあとから、涙が伝う。
今日、無惨に破れた恋に、涙が止まらない。
* * *
翌朝。
卯三つの刻。(朝6時)
本当に藤売は荷造りをし、これから河内国へ発つ。
古志加は荷造りをしながら、
「いいの……?」
と訊いてしまった。
昨日、自室に戻ってから、藤売は泣いていた。
静かに、泣き声ももらさず、ただハラハラと泣いていた。
「古志加。」
荷造りを家令に話していた藤売は、ふっと艶のある唇で笑い、
「昨日、話しの途中だったわね。
なぜ大川さまなんです、っておまえは訊いた。
そしておまえは、自分の心を話してくれた。
だからあたくしも話すわ。」
ちょっと唇を舌でなめし、
「
すごく素敵で、立って歩いてるだけで、あたりが輝いているように見えたわ。不思議よね。」
「わかります。」
古志加は即答した。
「それであたくしは、なんとしてもって思って、どうしたと思う?
み仏に捧げるはちす(蓮)の花をちょうど手に持っていたの。
人波をぬって、大川さまに近づいて、わざと転んで、花を頭の上から散らせたの。
頭に花びらを載せて、あの方、目をパチクリさせてたわ……。」
ふふふふ、と藤売は幸せそうに笑った。
今までで一番、幸せそうに。
思い出の中の大川さまは、あたしのくるみの人の思い出のように、胸のなかの深い底で、清く、美しい清水のように、心を潤し続けているのだろう。
「それで、ちょっとだけ喋って、名をききだして……。
でもあの方、もう、覚えていらっしゃらなかったわ。」
ふっ、とため息をつき、目を閉じ、また目を開いてから、藤売は遠い目をした。
「それでね、その後、
そのお方、ちょっとだけ、顔が大川さまに似ていたわ。」
藤売は涙を浮かべ、晴れやかに笑った。
「ねぇ、古志加。持ち物全部奪われて、衣までとられて、何一つ、あたくしの手元には残されていないけど、それでもあたくしの……。
恋うる心までは
「あたしに抱かせて!」
古志加はたまらず、藤売に抱きついた。
「あ、あなた何を……。」
と藤売は古志加の腕の中で身じろぎするが、古志加の力は強い。
「あんた、優しい、可愛い顔もできるんだから、いつもそんな顔をしてるべきだ。」
遠慮なく古志加は言った。
「
と藤売は笑った。
「あなたこそ、紅珊瑚の耳飾りを早くつけなさい。
あなたは見たことがないだろうけど、どんな貴石も、土から出てきただけでは、ただちょっと綺麗なだけの
よく磨くから玉となり光るの。
あたくしが化粧をしてない顔なんて、あなた見たことがないでしょう……?」
たしかに、藤売は陽が昇ると同時に、顔に丁寧に化粧を施す。
それこそが自分の顔、とでも言うように。
「わかった。頑張る。元気で。」
そう言って身を離すと、藤売は古志加を見つめ、美しく笑ってくれた。
舌が触れたら、全身を痺れさせるような毒を内に秘め。
だからこそ、どこまでも艶があり、目が離せないような笑み。
少し悲しそうに、目がきらきらと光っているのが、他に比ぶべくもない魅力を藤売の笑顔に添える。
………あたしが、
* * *
藤売と家令は、護衛に守られて
三虎もいたが、古志加は話す
だが、三虎とすれ違った時に、おや? という顔をされた。
それはそうだ。
少しの時間を見つけて、甘糟売に、針で耳たぶに穴を開けてもらった。
まだ血がでるので、首に麻布をまいてる。
女官姿に、恰好悪いことこの上ないが、藤売に、見せたかった。
───紅珊瑚の耳飾り、つけるよ。
血が止まったら。
* * *
*玉限るは、玉がかすかに光る、という枕詞と考えられていますが、ここでは、玉…魂、限る…命が限られてしまう、という漢字に込められた思いを掬い上げて、こう訳しました。意訳です。
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