第三話  薫陸香 〜くんりくこう〜

 部屋には、藤売ふじめ古志加こじか、藤売付きの女官の甘糟売あまかすめ阿刀あと家の家令かれいが残された。


(さて……藤売はあたしにどんな用なんだろう?)


 藤売が立つ。

 古志加の顔をしっかり見据え、鼻高沓はなたかぐつを鳴らし歩いてくる。

 ふわりと良い匂いが古志加の鼻をくすぐった。

 大川さまとも、三虎の浅香あさこうとも違う。

 甘さはない。木々の香りでもない。

 穏やかで包み込まれるようでありながら、するりと体に入ってきて、頭のてっぺんまで突き刺さるような、鋭い清らかさを持つ香り。


 古志加は思わず、しげしげと藤売を見て、


「すごい良い匂いがするんだぁ……。」


 とつぶやいてしまった。

 藤売は、あら、と笑い、


「ありがとう。薫陸香くんりくこうよ。良い匂いでしょう?」


 と機嫌よく言い、笑顔のまま、思いきり力強く古志加の頬を平手打ちした。

 ぱぁん、

 良い音がし、

 古志加は自分の頬に手をあて、驚きの顔で藤売を見ることしかできない。


「おまえ、湯殿の道で、あたくしを突き飛ばしたわね。」


 藤売の笑顔は、機嫌の良い顔から、獲物をいたぶる残忍な笑みへと変わっていた。

 目がギラギラと光を放ち、凄みがあった。

 無言で、怯えた顔の甘糟売あまかすめに手をだした。

 藤売は、手のひらを、

 くいっ、

 と上にあげるが、

 甘糟売はわからない。

 藤売は軽くため息をつき、


「───ムチ。」


 と言った。

 すぐに甘糟売はムチを手渡した。

 黒い棒の先に、革を紐状にしていくつも取り付けてある。

 ぱし、と手のひらでムチの感触を確かめながら、藤売は美しいが禍々しい笑みを浮かべ、古志加を見上げた。

 古志加は背が普通のおみなより、頭一つ高い。


「あたくしは畿内の大豪族、河内国大領阿刀宿禰田主かわちのくにのたいりょうのあとのすくねのたぬしが娘であり、宮中の采女うねめでもありました。

 直々にしつけてやるわ。つま先の動き一つ、指先の動き一つ、おろそかにしなくってよ……。

 さあ、歩きなさい。」


 歩いた。

 一歩で、ぱん、と藤売が床をムチ打ち、


「すり足が足りない!」


 と叫び、


裳裾もすそをまくりなさい。」


 と言った。

 まくった。

 ふくらはぎをムチでしたたかに打たれた。

 古志加は眉根を詰め、声一つもらさない。


(このおみな……。)


 と闘志に燃える目でゆっくり藤売の顔を見た。

 藤売はそれを見て、嬉しそうに、残忍に、


「あはは。」


 と笑った。




     *   *   *




「はあぁ……。」


 女官部屋の布団に古志加はよろよろと倒れ込んだ。

 あのあとも、さんざんふくらはぎをムチで打たれた。

 じくじくとうずく。

 あれは、ムチ打つことを楽しんでやってるとしか思えない。

 昔、女官の仕事を初めて学んだときも、日佐留売ひさるめに棒で打たれたが、一つの注意につき、一回打たれただけだったし、いつでも何でも棒で打たれたわけではなかった。


(日佐留売は優しかったんだなぁ……。)


 当時はわからなかった。


「何なんだ、あのおみな……。」


 藤売さま、と言うべきなのだろうが、ついついあの女呼ばわりしてしまう。


「古志加ぁ、大変だったわね、傷に効く薬草塗ってあげるわ。」


 と甘糟売が手に薬草を持ってやってきてくれた。


「ありがとう。ずいぶん用意がいいね……?」


 と言うと、甘糟売が薬草を布団に置き、悲しそうに自分の裳裾を上げてみせた。無数のムチ打たれたあとがある。


「酷い……。」


 部屋にいた女官全員が震え上がる。


 藤売さまは美人だけど、とにかく怖い。

 ちょっとでも気に入らないと、すぐムチ打ってくる。

 今まで、あんな怖い方にお仕えしたことはない……。


 古志加と同室の女官たちは、皆口を揃えてそう言った。


「可哀想に、古志加。あまりに家柄が良すぎるから、宇都売うつめさまも、大川さまも丁重に扱ってるわ。だからって図に乗ってるのよ。」


 と、福益売は古志加の頭をしきりになでてくれた。




 三虎が、


難隠人ななひとさまを守れ。」


 と言ったのが、良くわかった。

 今のところ、藤売は難隠人さまにそっけないが、ムチ打とうとか、乱暴なことは考えてないようだった。

 難隠人さまは、藤売を義母として、愛されたいと願っている……。

 いずれ、藤売が難隠人さまをムチ打とうとする日が来るかもしれない。


(そんなことはさせない……!)


 古志加は奥歯をぎり、と噛み締めた。


(あたしが、させない……!!)


 かと言って、何ができるという訳ではないが、


(あたしは、あの女に負けない。)


 何があっても、屈しない。

 それが、あたしが背にかばう難隠人さまを守ることにつながるはずだ、と思い、古志加は闘志をたぎらせた。





    *   *   *





 古志加は、藤売から難隠人さまの部屋に行くことを許されなかった。

 今も、朝からずっと、藤売の部屋の掃除をさせられている。


(上等だ……! 隅から隅までぴっかぴかにしてやる!)


 はじめの刻。(朝9時)


 難隠人さまが藤売の部屋に来た。

 先程火鉢の掃除をさせられたので……今は使う時期ではないんだけど……顔をすすで汚した古志加を見て、難隠人さまが心配そうな顔をむけた。


(大丈夫。)


 と古志加はにっこり頷いてみせる。難隠人さまは和歌の詠唱のあと、


「お願いがあります、藤売さま……。」


 と、おずおずと切り出した。


「今日は、このようなものを持ってきました。ぜひ、遊んでいただきたくて……。少しだけの時間でいいのです。」


 と一生懸命お願いした。

 福益売が包みを開き、中からいくつもの金に塗られた貝をだした。

 古志加は知っている。

 二枚貝の内側には、絵が描かれている。

 貝をふせ、同じ絵柄をあてる遊び。

 日佐留売と、古志加も、何回も付き合ってやった遊びだ。

 期待を込めて難隠人さまは藤売を見るが、藤売は、顔の表情をまったく動かさず、


「イヤよ。」


 と一言だけ言った。

 は、と難隠人さまは大きく息を呑む。

 目尻に涙が浮かぶ。


「イヤ。」


 藤売は難隠人さまの顔をまっすぐ見て、重ねて言った。






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