第三話 薫陸香 〜くんりくこう〜
部屋には、
(さて……藤売はあたしにどんな用なんだろう?)
藤売が立つ。
古志加の顔をしっかり見据え、
ふわりと良い匂いが古志加の鼻をくすぐった。
大川さまとも、三虎の
甘さはない。木々の香りでもない。
穏やかで包み込まれるようでありながら、するりと体に入ってきて、頭のてっぺんまで突き刺さるような、鋭い清らかさを持つ香り。
古志加は思わず、しげしげと藤売を見て、
「すごい良い匂いがするんだぁ……。」
とつぶやいてしまった。
藤売は、あら、と笑い、
「ありがとう。
と機嫌よく言い、笑顔のまま、思いきり力強く古志加の頬を平手打ちした。
ぱぁん。
良い音がし、古志加は自分の頬に手をあて、驚きの顔で藤売を見ることしかできない。
「おまえ、湯殿の道で、あたくしを突き飛ばしたわね。」
藤売の笑顔は、機嫌の良い顔から、獲物をいたぶる残忍な笑みへと変わっていた。
目がギラギラと光を放ち、凄みがある。
藤売は無言で、怯えた顔の
「……?」
気弱でつぶらな目の
藤売は軽くため息をついた。
「───ムチ。」
「はい……。」
怯えた顔のまま、すぐに
ムチは、黒い棒の先に、革を紐状にしていくつも取り付けてある。
藤売は、ぱし、と手のひらでムチの感触を確かめながら、美しいが禍々しい笑みを浮かべ、背の高い古志加を見上げた。
「あたくしは畿内の大豪族、
直々に
さあ、歩きなさい。」
歩いた。
一歩で、ぱん、と藤売が床をムチ打ち、
「すり足が足りない!
と有無を言わさぬ激しさで言った。
まくった。
ふくらはぎをムチでしたたかに打たれた。
古志加は眉根を詰め、声一つもらさない。
(この
と闘志に燃える目でゆっくり藤売の顔を見た。
藤売はそれを見て、嬉しそうに、残忍に、
「あはは。」
と笑った。
* * *
「はあぁ……。」
女官部屋の布団に古志加はよろよろと倒れ込んだ。
あのあとも、さんざんふくらはぎをムチで打たれた。
じくじくと
あれは、ムチ打つことを楽しんでやってるとしか思えない。
昔、女官の仕事を初めて学んだときも、
(日佐留売は優しかったんだなぁ……。)
当時はわからなかった。
「何なんだ、あの
藤売さま、と言うべきなのだろうが、ついついあの女呼ばわりしてしまう。
「古志加ぁ、大変だったわね、傷に効く薬草塗ってあげるわ。」
と
「ありがとう。ずいぶん用意がいいね……?」
と言うと、甘糟売が薬草を布団に置き、悲しそうに自分の裳裾を上げてみせた。ふくらはぎに、無数のムチ打たれたあとがある。
「ひどい……。」
部屋にいた女官全員が震え上がる。
「藤売さまは美人だけど、とにかく怖いわ。」
「ちょっとでも気に入らないと、すぐムチ打ってくる。」
「今まで、あんな怖い方にお仕えしたことはないわ。」
古志加と同室の女官たちは、皆口を揃えてそう言った。
顎のしゅっと尖った福益売は、
「可哀想に、古志加。あまりに家柄が良すぎるから、
と、しきりに古志加の頭をするなでてくれた。
三虎が、
「
と言った
今のところ、藤売は難隠人さまにそっけないが、ムチ打とうとか、乱暴なことは考えてないようだった。
難隠人さまは、藤売を義母として、愛されたいと願っている……。
いずれ、藤売が難隠人さまをムチ打とうとする日が来るかもしれない。
(そんなことはさせない……!)
古志加は奥歯をぎり、と噛み締めた。
(あたしが、させない……!!)
かと言って、何ができるという訳ではないが、
(あたしは、あの女に負けない。)
何があっても、屈しない。
それが、あたしが背にかばう難隠人さまを守ることにつながるはずだ、と思い、古志加は闘志をたぎらせた。
* * *
古志加は、藤売から難隠人さまの部屋に行くことを許されなかった。
今も、朝からずっと、藤売の部屋の掃除をさせられている。
(上等だ……! 隅から隅までぴっかぴかにしてやる!)
難隠人さまが藤売の部屋に来た。
先程火鉢の掃除をさせられたので……今は使う時期ではないんだけど……顔を
(大丈夫。)
と古志加はにっこり頷いてみせる。難隠人さまは和歌の詠唱のあと、
「お願いがあります、藤売さま……。」
と、おずおずと切り出した。
「今日は、このようなものを持ってきました。ぜひ、遊んでいただきたくて……。少しのお時間でいいのです。」
福益売が包みを開き、中からいくつもの金に塗られた貝をだした。
古志加は知っている。
二枚貝の内側には、絵が描かれている。
貝をふせ、同じ絵柄をあてる遊び。
日佐留売と、古志加も、何回も付き合ってやった遊びだ。
期待を込めて難隠人さまは藤売を見るが、藤売は、顔の表情をまったく動かさず、
「イヤよ。」
と一言だけ言った。
は、と難隠人さまは大きく息を呑む。
目尻に涙が浮かぶ。
「イヤ。」
藤売は難隠人さまの顔をまっすぐ見て、重ねて言った。
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