第七章   紅藤と珊瑚

第一話  浅香の匂い袋

 三虎は炊屋かしきやでお湯をもらってから、自分の部屋に古志加こじかを連れてきた。


 あいかわらず、すっきり片付けられている。

 三虎の……、木々の甘いかぐわしい香りが漂っている。

 浅香あさこうの匂い。

 二年前、一度この部屋に来たときには、人が沢山いてわからなかった。

 古志加はヒクヒクと鼻を動かしてしまう。


「何やってる?」


 三虎に見咎みとがめられて、


「あの……浅香が! いい匂いだなぁ、と。」


 とあたふたしながら古志加はこたえる。

 三虎がいぶかしむ顔で古志加を見る。

 だが何も言わない。

 部屋の奥には寝床があった。


(みっ……、三虎の寝てる寝床! )


 それが目の前にある。

 見てるだけでソワソワ落ち着かなくなるのは、どうしてなんだろう。


(寝床……、広い。)


 三虎は静かに、急須にお湯を注いでいる。

 嗅ぎなれない、薬っぽい、だけどどこか甘い匂いが部屋に満ちる。

 トトトト……。

 お湯を灰色の須恵器の杯にうつし、机に二つ置き、三虎は古志加にも倚子に座るように言った。

 杯のなかのお湯は、朽葉くちば色に濁っている。


「一気に飲むんじゃなくて、ゆっくり飲め。」


 と三虎が言い、先に杯に口をつけた。

 静かに無表情に飲んでる。

 古志加も飲んでみた。

 口に含むと、お湯がとろりとして、甘くこうばしい味がした。

 夜番明けの体に滋養が染み渡る。


「……甘い!」


 と古志加は驚いた。

 甘いのだが、ちょっと果物に似てる……?

 米の甘みの白酒しろさけとは違う、どこか香ばしさのある甘さ。飲んだことのない味だ。


「うまいだろ?」


 と三虎がこっちを見、口もとが笑った。きらりと黒錦石くろにしきいしかんざしが光りを放つ。


小麦しょうばく大棗たいそう甘草かんぞうだ。

 心が落ち着かぬ時や、眠れぬ時に飲む。夜番明けの体には嬉しいだろ。」

「うん、嬉しい。ありがとう……。」


 と古志加も笑う。心から嬉しくて。




     *   *   *




 よしよし、笑ったな古志加。

 ここまでしてやれば当然だな! と三虎は思う。

 自分の部屋で薬湯くすりゆをふるまうなど、他の衛士にしたことはない。

 ただ、今は自分も飲みたい気分だった。

 これで落ち着いて話ができる。

 杯を夢中でちびちび舐める古志加が、


「いつも、こんなもの飲んでるの?」


 と訊くので、


「いつもじゃない。高価なものだから、飲みたくなったときにしか飲まない。

 あと、大川さまがお疲れのとき、淹れてさしあげることがある。

 あの方は、苦いものが苦手で……、薬湯も甘いものが良いとおっしゃる。」


 と三虎がくすりと笑うと、古志加も笑って、


「へぇ……、大川さまが。」


 と言った。

 大川さまが。

 古志加の口がそう動いたのを見て、なぜか三虎の体の内側がピリリとした。


「この話はいい。古志加、お前、これからしばらく、難隠人ななひとさま付きの女官の仕事だけしろ。」

「えっ!」


 古志加が驚いて、杯を机に置いた。


鎌売かまめの──、オレの母刀自からの願いだ。期限は、鎌売が良いと言うまで。」

「あ、あたし……。」


 古志加がとまどい、うつむく。


「もちろん、卯団うのだん衛士でなくなるわけではない。鎌売が良いと言えば、いつでも卯団に帰ってこれる。」

「あたし……。」


 古志加の声が小さくなる。


「難隠人さまの世話が辛いか、古志加。たしかにやんちゃがすぎるな。

 まさかお前が……、胸もまれたり尻触られたりしてるとは知らなかったぞ、古志加。」


 古志加が、ぐぅ、とうめいて机につっぷした。

 額を勢い良く机に打ちつける。

 三虎はひょいと、自分と古志加のぶんの杯を持ち上げた。

 中身は無事。


「おい。高価だって言ったろ。こぼすな。」


 古志加は机の上でこぶしを握りしめ、きっ、と顔をあげた。


わらはのすることです、いちいち気にしたりしません。

 やんちゃですが、悧発りはつで、優しいところもある若さまです。

 世話が辛いだなんて、これっぽちも思ってません。」

「他の女官は泣かされてるようだが?」

「あたしは泣いたりしません!」

「そうか。」


 と三虎は薬湯を一口すすり、


「じゃあ、昨日泣いたのはオレのせいか。」


 とたんたんときいた。

 古志加は、うっ、と言葉につまり、顔を赤くしてうつむいてしまった。


「なぜか花麻呂に言われた。お前を泣かせたのはオレだって。

 いや、どう考えても難隠人さまだろ、って思ったけど、オレの不用意な言葉がお前を傷つけたのなら、……すまなかった。許してくれ。」


 古志加は耳まで赤くして、うつむいたまま無言だ。


「古志加、飲め。心が楽になるから。」


 と古志加に薬湯を差し出した。

 古志加は受け取り、赤い顔をあげ、杯を干した。


「そして聞け。難隠人さまを守れ。女官として立派に務めあげろ。姉上のぶんまで。」


 古志加がハッとした顔をして、真剣に三虎を見る。


「あのおみな……、藤売ふじめが、吉とでるか、凶とでるか、まだわからない。

 だが、オレは悪い予感がする。」


 布多未ふたみが、碓氷うすい峠の襲撃あとで、


 「全ての葛籠つづらがまるごと火で焼かれていた。」


 と言っていた。盗人ぬすっとにしては奇妙だ。


 さらに、深夜になって上毛野君かみつけののきみの屋敷についた、襲撃から残った供の者は7人。

 全員、おのこ

 藤売に確認したら、女官は連れてきていない、と答えたという。

 あの身分のおみなが、婚姻に、女官を一人も連れてこないなど、ありえない。


 こちらの返事を待たずに、婚姻の申し込みをした次の日に、河内国かわちのくにをすでに出立したとしか思えない日の早さも、ありえない。


 あのおみなは、どこかおかしい。


 不吉な黒い影が三虎の胸中に渦巻いている。

 あのおみなから、大川さまはもとより、難隠人さまを守らなければならない。鎌売が、


「古志加を女官として、しばらくずっと使わせてほしい。」


 と言うのもわかる。

 だがそれは、あの女が毒をもったくちなわ(蛇)女だった場合は、毒牙と古志加が戦うということだった。

 古志加は女嬬にょじゅ(女官をたばねる者)でもなんでもない、親なしのさとの娘だ。

 畿内の大豪族の娘と、身一つで戦うことになる。

 古志加以外の衛士なら縁のない戦いに、古志加を行かせることになる。


「古志加、手を出せ。」


 三虎は言い、手をだした古志加の両手をつかんだ。古志加が驚き、息を呑む。手を強く握りしめ、


「お前にしか頼めない。頼んだぞ、古志加。」


 と目を見て言った。古志加はきりりと口もとを引き締めて頷き、


「わかりました。三虎。」


 と言った。そしてなぜか、ちょっと顔を赤くして、寝床の方を見た。

 もちろん、女官用の布団より、綿がたっぷり入った布団を三虎は使っているはずだが、


(夜番明けだからって、人の寝床を物欲しそうに見るんじゃない!)


 三虎は、ぱっと古志加から手を離し、ムッと不機嫌そうな顔で、


「ほら、これやるから、もう出てけ。

 今日は寝ろ。明日から難隠人さまにつけ。」


 と言って、懐から浅香の匂い袋をだした。


(古志加は、オレが好んで使ってる香の名を、なぜ知っていたのだろう?)


 オレが前に教えたのかもしれない。

 匂い袋など、古志加はまず持っていないだろう。

 飾り池の魚に餌を与えて、好きな方向に魚を移動させるように、匂い袋を、ぽいっ、と古志加に放り投げた。

 そして、浅香を受け取り、目を丸くした古志加を、


「たたら濃き日をや!」


 さっさと部屋から追い出した。

 早く大川さまのもとに行くのだ。




     *   *   *




 女官の部屋。

 今は古志加一人だ。

 古志加は、宝物を包んだ若草色の麻の包みを開く。

 なかには、三虎からもらった、胡桃色の上衣と、山吹色の郷の女の衣、衛士になってからは、割れないようここにしまってる、つみ(つげ)のくし

 日佐留売がくれた金のかんざしが入っている。

 そして、新しく……。


「ふふ……。」


 嬉しい。笑みがこぼれる。


「三虎の浅香あさこうだぁ……。」


 奥ゆかしい甘さがあって、ふわっとした軽さと、品がある。

 なんて良い匂いなんだろう。

 丙午ひのえうまの年(766年、六年前)、十歳の、毎日、この匂いをかいで寝ていた、あの頃が懐かしい。

 古志加はゆっくりと、匂い袋を指でなぞった。白い木綿の袋に、木を砕いたものが入れられている。ちょっと前までは、三虎の懐で、匂いを放っていたものだ。


(今日からは、ずっとあたしと一緒だよ。)


 匂い袋をきゅうと握りしめ、胸に大事に抱く。


「うふふ……。」


 三虎の肌が近い幻想を抱く。胸が早鐘を打つ。

 目を閉じる。

 まぶたの裏に浮かぶのは、三虎の部屋の寝床。あそこに自分が……、とは想像ができないけど、間違いなく、あの寝床で三虎は寝てるんだ。からの寝床からも、三虎の気配が濃厚に感じられるような気がする。

 あああ! ちょっとあの寝床が意識から離れない。

 想像はできないんだけど、し、死ぬまでには……。と、思ってしまう。

 願ってしまう。


「はああ……。」


 熱のこもっため息が口からもれる。

 今日は、三虎の顔がたくさん見れた。声がたくさん聞けて、


 ───頭が腐って耳から全部流れたか!


 罵倒された。


 ───うまいだろ?


 こっちを見て笑ってくれた。


「キャ───!」


 古志加はたまらず、布団にあお向けになり、足をバタバタさせた。

 どっちの三虎も恋いしい。


 ───オレの不用意な言葉がお前を傷つけたのなら、……すまなかった。許してくれ。


 そんな言葉、言われたのは初めてだ。

 ……あたしなんかに、謝らないで。三虎が謝まる必要なんてない。

 そう思ったけど、どう伝えれば良いのか分からず、言葉は喉に絡みついたまま、頬に熱がまるだけだった。

 ただ、三虎の声が憂いを帯びて、「すまなかった。」と謝った顔が、静かな表情のなかに、後悔の影がさして、ものすごく格好良かった。今思い出しても、頬が熱くなる。


「キャ────!!」


 足のバタバタが止まらない。


 ───お前にしか頼めない。頼んだぞ、古志加。


 真剣に目を見て言われた。

 古志加は足をバタバタさせるのをやめ、むくっと起きあがった。

 顔から笑みを消す。


(あたしには……、その言葉は重すぎる。)


 そんなことを言われたら、あたしは。なんでもやる。

 たとえ火で焼けた石の上でも、歩いてみせる。





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