第四話

 荒弓あらゆみは気が重い。


 衛士舎えじしゃに戻る。

 衛士舎の外では、花麻呂はなまろこもを体に巻いて、荒弓を待っていた。


「おいおい、風邪ひくぞ。」


 と渋い顔で荒弓が言うと、ずず、と鼻水をすすりながら、花麻呂が真剣な目を荒弓に向けてくる。


「いれこむな。吾妹子あぎもこにしようなんて思うな、ってオレは言ったぞ。花麻呂。」


 と、何回目になるかわからない忠告を荒弓は繰り返してしまう。

 花麻呂は言葉を静かに受け止め、揺るがない眼差しをむけてきた。


「……わかってます、荒弓。わかっているんです。こんなこと頼んで、申し訳ありません。」


 荒弓は一つため息をついてから、

 からになった酒壺を揺らし、


「三虎は遊浮島うかれうきしまからだすつもりはないそうだ。」


 と告げた。

 花麻呂が目を見開き、大きく息をすい、噛みしめるように笑顔になり、


「……よし!」


 とつぶやいた。

 心からの感謝をにじませながら、


「ありがとうございました。」


 と荒弓に頭を下げ、衛士舎の扉をひらいた。

 荒弓を先に衛士舎に入れ、花麻呂も続く。

 もう皆寝てる時間だ。

 会話はしない。




   *   *   *    




 この十八歳の若者は、本気で遊行女うかれめに恋をしてしまった。


「命を捧げても良い、まことの恋なのです。」


 思い詰めた顔で、


「三虎にも、莫津左売なづさめにも、

 迷惑をかけるようなことはしません。

 三虎が明日にでも遊浮島うかれうきしまから莫津左売をだすというなら、それ以上、莫津左売を追ったりしない。

 うけひします。

 だがそうでないなら、髪の毛一筋分でも、オレにも望みがあるなら、何年かかっても、オレはあそこから莫津左売をだしたい。

 お願いします、荒弓。

 どうか三虎が莫津左売をだすつもりなのかだけ、聞いて下さい。」


 と言われてしまっては、荒弓も断りきれない。

 なぜからたちの道を行く。

 そう言ってやりたかったが、まことの恋の道ならば。

 何を言ってもこの若者を止めることはできない。


(遊行女は、ももをつねられるくらいが一番楽しいんだぞ。)


 荒弓はそう思うが、花麻呂の賛同は得られなさそうだった。




     *   *   *





 荒弓は、明日にでも教えてくれるであろうが、待てなかった。

 花麻呂は外で長い時間、荒弓を待った。

 夜はしんしんと冷えて、体は凍えたが、夕方までに風はやみ、雲が吹き飛ばされ、煌煌こうこうと照らす二日月が見えた。


 その細い月を見ながら、

 莫津左売を思った。


 荒弓の忠告を忘れたわけではない。

 ただあの、天の川に星となって昇っていってしまいそうな、この世のものとも思えない美しいおみなを、一目、近くで見たい。

 肌が、あの織女星しゅくじょせいのごとく冷えていないか、温かいのか知りたい。

 それを確かめるだけだ、と自分に言い聞かせ、遊浮島うかれうきしまに行った。



 そして一度逢えば。


 もう何の言い訳を己にできようか。

 ああ、この女に逢うために、オレは生まれてきたのだなぁ、と思った。



「……よし。」


 皆を起こさぬよう、小声でつぶやく。

 冷えてしまった手指をもみ合わせながら、花麻呂は静かに己の心とむきあう。


 オレは本気だ……。

 今はおのことして勝てなくても、万に一つでも望みがあるなら、オレは諦めない。

 三虎はあれだけの男だ。

 腕が立ち、頭も良い。

 石上部君いそのかみべのきみの若さまだし、卯団うのだん長として尊敬もできる。

 ……愛想はないが、顔も普通に良い。背も高い。


 隙がねぇ!


 莫津左売も、三虎の吾妹子あぎもこであるのは幸せなのだろう。

 無理やり三虎から奪うことはできない。

 それでは心は得られない。


(オレを見て、莫津左売。オレだって莫津左売を幸せにできる。)


 美しい莫津左売。

 優しい笑顔。

 どこまでも優しい手指。

 白梅のかぐわしい匂い。

 華奢で、強く抱きしめたら折れてしまいそうなのに、オレの全てを柔らかく包み込んでくれる。

 恋いしい。莫津左売。

 オレの方を、振り向いてほしい。








↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330662369622886



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