第四章 五色の紐の檜扇
第一話 大川、何似幽懷攄、其の一。
何を
* * *
一年の歳月が流れた。
雨が降っている。
倚子に座り、白い唐渡りの陶器の
「大川さま。妻をとらないのですか。」
「……
机の側に立つ三虎に、大川は硬い声で応じる。
部屋には二人きり。
無理に笑顔を浮かべる必要もない。
「あくまで
跡継ぎがいても、母刀自がいなくては、格好がつきません。まさかまだ、」
そこで三虎は少し迷い、
「まだ、
と聞いた。
(よくその名が口にできたものだ。)
大川は無言で三虎を険しく見た。
その名を聞いて、今は、恋しさがあふれ出すというわけではない。
もうこの年月で、恋うる気持ちは風にさらわれた砂のように、胸の内から流れ去ってしまった。
では、何も感じないか、というとそうでもない。
じり、と胸が火で焼かれた炙りあとを、素手でまさぐられるような、ようするに、不快だった。
「まだ恋うているわけではない。」
低い声でこたえると、
「なら、新しい
もう六年も経っているんです。
とにかく、
「三虎……。」
三虎は、十五歳のとき、奈良へ向かう道中、供の者達と浄酒を飲んだ夜、他の者にはやしたてられながら、きっ、とこちらを見て、
「大川さま、オレは
もう
と宣言してきた。
(別に言わなくてもいいのに。)
と思いつつ、女のことで悩むなら、オレに話せ、ということなのだろう、と理解した。
そこまで私に合わせなくても良いのに、そこまでするのが三虎だった。
そして、
今も、心から私のことを心配してるのはわかってる。
たしかに、あの
「嫌だ。」
「大川さま……。」
「私は、
父について、
だから、もう言うな。」
「………。」
「父や母刀自が言うなら甘んじて聞こう。
でもお前だけは……、私の友であるお前だけは、言うな。」
大川は三虎を見つめ、静かに微笑んだ。
三虎はただ顔を伏せ、
「出過ぎたことを……。お許し下さい。」
と許しをこうた。
しとしと、雨はずっと降り続けている。
* * *
大川はふっ、と笑い、
「父に昼に言われた件だが。」
と言った。
「七夕の宴のことですか?」
「そうだ。何か良い案はあるか?」
一ヶ月後の七夕の宴の催し物を、何か考えろ、と父に言われた。
宴は大切な社交の場だ。
裕福な者たちには娯楽が必要だった。三虎は、
「そうですね……。」
と考え込んでいたが、
「
と言った。
群舞ではその限りではないが、一人前に進み出て、唄と舞を披露する遊行女は、遊行女のなかでも熟練の技と経験が求められる。
独唱する遊行女は、いつも決まった顔だった。
そこまで大川は考え、思い至る。
「よもや、お前の馴染みを抜擢したい腹積もりではないだろうな、三虎。」
図星だった。
三虎が眉根を詰め、早口になりながら、
「本当に良い声をして、唄わせると鈴がなるようなんです。絶対良い舞台になりますから……。」
と言い募る。
大川はニヤリと笑って、
「ほうほう、良い
───お前も唄え。」
と言った。
「は?」
と三虎はかたまった。
「お前の馴染みの
色っぽい和歌でも遊行女と唄えば、皆喜ぶだろう。」
「オ、オレは、そんなことは……。」
目に見えて三虎が狼狽してる。
(そんな恥ずかしいことできるか! って顔にかいてあるなぁ……。)
いくら無表情の三虎でも、長年の付き合いだ。
わかるなぁ、としみじみ大川は思いながら、
「お前は
姉は、
そのお前が活躍するのは、難隠人にとっても喜ばしいことである。
───唄え。」
大川はスラスラと言ってやった。
三虎は、ぐ……、ぐ……、と
「では
とガクリとうなだれた。
「ずいぶんお硬いな! いいだろう……。」
くっ、くっ、と楽しげに大川は笑う。
くそぉ、と小声でつぶやいて、三虎は悔しそうに大川を見る。
「いや、良かった。これは良い催しになりそうだ。」
今から楽しみだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます