第四章   五色の紐の檜扇

第一話  大川、何似幽懷攄、其の一。

 何をもちてか幽懷ゆうかいべむ………幽懷ゆうかい(人知れず心の奥深く抱く思い)を、いかにべれば良いのだろうか。



   *   *   *




 辛亥かのとのいの年。(771年)


 一年の歳月が流れた。


 三虎みとら二十一歳の六月。



 しとしと……、と雨が降っている。

 とりの刻。(夜5〜7時)


 大川は、自室で、白い須恵器すえきつき白湯さゆを飲み、くつろいでいる。

 部屋の蝋燭ろうそくをつけ終えた三虎が、倚子に座る大川に向き直った。無表情ななかに決意をこめて、大川を見る。


「大川さま。妻をめとらないのですか。」


 大川は一度も妻帯した事はない。

 息子の難隠人ななひとは、黄泉渡りした兄の息子を養子にした。


 大川は、途端に硬い表情になる。

 ここには、三虎と大川、二人きり。

 いつもの柔和な笑顔を装う必要もない。


「……日佐留売ひさるめはよくやってくれている。それで良い。」


 三虎の姉である日佐留売は、難隠人の乳母ちおもであり、難隠人をしっかり養育してくれている。

 

「あくまで乳母ちおもです。母刀自ははとじにはなり得ません。

 跡継ぎがいても、母刀自がいなくては、格好がつきません。まさかまだ……。」


 三虎は少し迷ってから、言葉を口にした。


「まだ、比多米売ひたらめが忘れられないのですか?」


(よくその名が口にできたものだ。)


 大川はまなじりを釣り上げ、無言で三虎をにらんだ。


 その名を聞いて、今は、恋しさがあふれ出すというわけではない。

 もうこの年月で、恋うる気持ちは風にさらわれた砂のように、胸の内から流れ去ってしまった。

 では、何も感じないか、というとそうでもない。

 じり、と胸が火で焼かれた炙りあとを素手でまさぐられるような───、ようするに、不快だった。


「まだ恋うているわけではない。」


 低い声でこたえると、


「なら、新しいおみなを迎えるべきです。

 もう六年も経っているんです。

 遊行女うかれめで遊ぶのだっていい。

 とにかく、おみなとさ(男女が素晴らしい夜を過ごすこと)すべきです!」


 三虎が大川を見る眼差しは、忠心ちゅうしんと親愛の情が灼然炳乎しゃくぜんへいこ(きわめて明らか)と見てとれた。

 大川の胸のうちに湧いた苛立ちは氷解した。


「三虎……。」


 三虎は、十五歳のとき、奈良へ向かう道中、供の者達と浄酒きよさけを飲んだ夜、他の者にはやしたてられながら、きっ、とこちらを見て、


「大川さま、オレはすずを鳴らしました。

 もう清童きよのわらはではありません。

 遊行女うかれめ莫津左売なづさめといいます。」


 と宣言してきた。

 別に言わなくてもいいのに、と大川は思ったが、おみなのことで悩むならオレに話せ、ということなのだろう、と理解した。


 そこまで私に合わせなくても良いのに、そこまでするのが三虎だった。


 そして、上野国かみつけのくにに戻ってから、時々、遊浮島うかれうきしまに三虎が行ってるのは知ってる。


「おまえが、心から私のことを心配してくれているのはわかってる。

 たしかに、あのまぼろしのようだった一夜以降、おみなをまったく寄せ付けず、遊行女うかれめと遊ぶでもない私は、世間から見たら、のだろう。

 だがそれでも、嫌だ。」

「大川さま!」

「嫌だ。」

「…………。」

「私は、上毛野君かみつけののきみの跡継ぎとして、ちゃんとやってるだろう?

 父上について、上野国大領かみつけのくにのたいりょうの仕事も覚え始めたし、難隠人ななひとにも、父親としてよく目をかけてやっているつもりだ。

 だから、もう言うな。」

「………。」

「父上や母刀自ははとじが言うなら甘んじて聞こう。

 でもお前だけは……、私の無二の友であるお前だけは、言うな。」


 大川は三虎を見つめ、静かに微笑んだ。

 三虎はただ顔を伏せ、


「出過ぎたことを……。お許し下さい。」


 と許しをこうた。


 しとしと、雨はずっと降り続けている。


 大川はふっ、と笑った。


「良い。」


 白湯さゆを口に含み、つきをコトリ、と机に置く。


「三虎、昼間、父上に言われた件だが。」

「七夕の宴のことですか?」

「そうだ。何か良い案はあるか?」


 一ヶ月後の七夕の宴の催し物を、何か考えろ、と父上に言われた。

 宴は大切な社交の場だ。

 裕福な者たちには娯楽が必要だった。三虎は腕組みし、考えこむ。


「そうですね……。

 遊行女うかれめを、新しいおみなに唄わせてみてはいかがでしょう?」


 群舞ではその限りではないが、一人前に進み出て、唄と舞を披露する遊行女うかれめは、熟練の技と経験が求められる。

 独唱する遊行女うかれめは、いつも決まった顔だった。

 そこまで大川は考え、思い至る。


「よもや、お前の馴染みを抜擢したい魂胆こんたんではないだろうな、三虎?」

「うっ。」


 図星だったようだ。

 三虎が眉根を詰め、早口になりながら、


「本当に良い声をして、唄わせると鈴が鳴るようなんです。絶対良い舞台になりますから……。」


 と言い募る。

 大川はニヤリと笑った。


「ほうほう、良いだな三虎、ん?

 ───お前も唄え。」

「は?」


 三虎は完全に動きを止めた。


「お前の馴染みの花舞台はなぶたいとしてやっても良い、ついでにお前も唄え。

 色っぽい和歌でも遊行女と唄えば、皆喜ぶだろう。」

「オ、オレは、そんなことは……。」


 目に見えて三虎が狼狽してる。


(そんな恥ずかしいことできるか! って顔にかいてあるなぁ……。)


 いくら無表情の三虎でも、長年の付き合いだ。大川は、わかるなぁ、としみじみ思いながら、


「お前は上毛野衛士団長大佐かみつけののえじだんちょうのたいさ石上部君八十敷いそのかみべのきみのやそしきの次男にして。

 上毛野衛士卯団長少尉かみつけののえじうのだんちょうのしょういである。

 姉は、上毛野君かみつけののきみの一人息子、難隠人ななひと乳母ちおもであり、難隠人を支える後ろ盾でもあるな?

 そのお前が活躍するのは、難隠人にとっても喜ばしいことである。

 ───唄え。」


 とスラスラと言ってやった。

 三虎は、ぐ……、ぐ……。とうなったあと、


「では論語ろんごを。色っぽい和歌だけは勘弁して下さい。」


 とガクリとうなだれた。


「ずいぶんお硬いな! いいだろう……。」


 くっ、くっ、と楽しげに大川は笑う。三虎は、


「くそぉ。」


 と小声でつぶやいて、悔しそうに大川を見る。


「いや、良かった。これは良い催しになりそうだ。」


(今から楽しみだ。)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る