第五話  多夫礼 〜たぶれ〜

「そこのお二人さん!

 ありがたいお坊さんが、特別な御札おふだを授けてくださるってよ。」


 声をかけてきたのは、ノビルの塩漬け売りのおみなだった。


「限られた数の、とくに救いを必要とした人にしか、授けてくださらない御札ということさ……。

 こっちについてきておくれ。」

「そのようなこと、頼んでないのですが……?」


 薩人さつひとが不思議そうにく。


「ありがたいお坊さんには、わかりなさるのさ。

 ね? うちのノビルを食べれば、いいことあるだろ……。」


 おみなは、にぃっ、と笑い、くるりと背をむけ、こちらを振り返る。


「来ないのかい?」

「行きましょう。」


 薩人が古志加こじかの腕を掴んで言った。




     *   *   *




 二人、おみなのあとをついて歩く。

 どんどん人気のないほうへ。

 木々が多く、やがて山すそへ。


「まだですか?」

「あんまりありがたい御札なので、人が多いところでは授けられないのさ。人が群がってしまうからね……。

 ああ本当に、お二人さんは運が良い……。」


 やがて、山の奥まったところに、小さなお堂が見えてきた。


(あそこかな?)


 と古志加が思っていると、目の前を歩く薩人が、いきなり立ち止まった。

 どうしたの? と言おうとして、なぜか声がでない。

 薩人が、ぐらり、とかしいで倒れた。

 あ、と言う間もなく、古志加も気が遠くなり、倒れた。





     *   *   *





 遠く近く、どこかで犬が吠えている。


 もっと近くでは、おみないじめられている声がする。

 手のひらが肌を打つ音もする。

 執拗しつように苛められ続けている……。



 いや、少し違う。

 家にたむろしていたおのこたちがいない夜に限って、古志加一人、半刻(1時間)ほど、外に出されることがあった。

 冬寒く、夏は蚊に悩まされた。


 ある日、母刀自ははとじの声を聞いてしまって、あとから、


「苛められているの?」


 と心配で、母刀自にたずねたことがあった。

 母刀自は、違う、と教えてくれた。

 どういうことなのか……。

 その、聞いてしまった声に似てる……。




 はっ、と目が覚めた。

 古志加は、腕と足を縄で縛られ、木張りの床の上に寝かされていた。

 頬が床に触れ、冷たい。

 中は暗い。

 明かりとりが、建物の上の方にしかない。


「古志加、見るな。」


 自分の目の前に、転がされてる薩人の背中が見えた。


(見るなって、何を……?)


 薩人の肩越しに、ノビルの塩漬け売り、あの馬面のおみなが馬のように、はだかで四つん這いになっているのが見えた。

 その上に、これまた馬のように黒い人影が覆いかぶさっている。

 おみなは叫び声をあげ、大きく口を開け、あごにはよだれが光ってみえた。


(なんだあれ……。

 気持ち悪い……。)


「ああ、ありがとうございます、ありがとうございます。」


 おみなは鼻息荒くそう言い、人影から離れ、衣を着はじめた。


「気がついたか。」


 人影はおのこだった。

 馬面のおみなが、お堂の外に出ていったので、中が一瞬、陽に照らされた。

 その三十代のおのこは、はだかだった。




     *   *   *




 薩人は、自分の後ろで転がされている古志加が、ひっ、と息を呑み、そのままドサリと木張りの床に倒れたのを感じた。

 いまだそそりおのこ角乃布久礼つののふくれを見て、気を失ったようだ。


 おのこは──国分寺で声をかけてきた、掃除をしていた男だった。

 男は袈裟けさを着はじめ、


「ふふふ、気を失ったか。初々しい若妻ではないか。」


 と上機嫌で言った。

 薩人が睨むのを察して、


「ああ、心配せずとも。

 先程のおみなは人助けなのだ。

 甲辰きのえたつの年(764年、6年前)に、つまが行商にいったきり、帰ってこず、その後、男日照りだと泣くもので、こうやって善行を積んだ後には、報いておる。

 可哀想なおみななのだ。

 あの顔だからなあ!

 これは人助けなのだ。」

「縛ってる縄をとけ。」

「無知と迷妄めいもうに、十重二十重とえはたえに包まれた者よ。

 おまえを煩悩の火が昼夜燃える世界から、解き放ってやろう。

 愛著あいちゃくに惑う夫婦めおとよ。

 ことごとく、苦悩くのうの海を乗り越えさせよう。」


 薩人さつひとにかまわず、スラスラ言葉を紡いだ男は、そこでわざと言葉を区切って薄くほほえみ、薩人の顔を凝視して言った。


「これから、この中に野犬を放つ。

 そなたらのうち、一人だけ助かる。

 どちらかの命を犠牲にすることによって、残された者は、自分がどれだけ愛されていたか知るだろう。

 犠牲となった者はみ仏のそばに行くことができる。

 生死しょうじの海の中で、自分を捨て、仏国土ぶっこくど荘厳しょうごんせよ。」


 お堂の外に、野犬の唸り声が聞こえる。

 四、五匹? もっと?


 両腕を縛られ、床に転がされた薩人は、男から目をそらさない。


多夫礼たぶれ(気狂い)め。」

「なかなか凡人には理解してもらえぬ。

 仏子ぶっし(ここでは己をさす)が魂を苦海くかいから解き放ち、無上の徳をおさめるのを。

 正法せいほうに対する、清浄の眼を完成していない者に説いても、説きつくすことができぬものよ。

 さあ、どちらが犠牲となるのだ。」


 薩人は古志加の前から動かず、少しも迷わず、くい、と己のあごを上げる。

 おのこは笑って、


「はは、そうよなあ!

 それだけ初々しい、にこ草(柔らかい若草)のような若妻ではなあ!

 なかなかここで……、夫婦めおとの言い合いとは見ものなのだがなぁ。

 そなたは凡人でも、徳の高いおのこだな。」


 薩人は男を睨みつけたまま、


「オレにはわかる。

 おまえが妻を生かしておくとは思えない。

 どうする気だ。」


 と低い声で聞いた。

 男は口の端を釣りあげ、


「どうもせぬ───。

 といつもなら言うところだが、おまえの勇気にめんじて、教えてやろう。

 おまえが、野犬に食い殺されるのを見届けたあと、すぐにくびり殺してやろう。

 命を捧げたお前を追って、蓮華蔵荘厳世界れんげぞうしょうごんせかい(み仏の国土)に仲良く行けるようにな。」


 おのこが一歩こちらに足を踏み出した。

 と、明かりとりから、

 ビン!

 と弓弦を弾いた音がし、弓矢がおのこの腹に深々と刺さった。

 男が、ぎゃっ、と悲鳴をあげ、バタンとお堂の扉が開いた。

 卯団うのだんの衛士が七人なだれこんで、男を素早く捕らえた。












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