第二章   蘇比色の衣

第一話  胡桃色の上衣

 三虎は、一年以上帰ってこなかった。

 次に会えたのは、翌年の十二月だった。


 丁未ひのとみの年。(767年)


 オレは十一歳になっていた。





    *   *   *





 うまの刻。(午前11時~午後1時)


「おい!」


 三虎みとらが厳しい顔をして、大股で荒弓あらゆみのところにやってきた。


「あっ、おかえりなさい。」

「おかえりなさい、三虎。」


 稽古を終えた十六人の卯団うのだん衛士えじが、昼餉ひるげにくつろぎながら、それぞれに三虎の奈良からの帰還を言祝ことほぐ。


「ああ、帰った。……で、古流波こるはは?」


 いらいらと三虎が問う。


古流波こるはでしたら。」


 荒弓あらゆみが返事をする。


「先ほど、ころも反吐へどを吐かれたんで、川に衣を洗いに行ってます。

 昼餉はいらない、って……。あ、三虎!」


 最後まで聞かず、荒弓の指し示した川の方へ、三虎は大股で歩きはじめた。




     *   *   *





「うっ……、うっ……。」


 オレは泣いていた。

 冬の川の水は冷たい。

 指がじんじんと冷える。

 上毛野君の屋敷内に引かれた川だ。川は、石で区切られて、その外はすぐに土の地面だ。

 ゴロゴロした河原ではなく、柔らかい土の地面に膝をついて洗濯ができた。

 灰汁色あくいろ(薄い灰色)のたえ(木の皮から作られた繊維)の上衣うわごろもを、下袴したばかま(ズボン)だけを身に着けた姿で洗う。


薩人さつひとのやつ、反吐へどなんか吐きやがって、うっ……、うっ……。」


 昨日は、「とある場所」で飲みすぎたと言っていた。

 隙があったので、腹に棒を打ち込んだら、


「う、おぇぇっ。」


 と思いきり肩から反吐をかけられた。

 衣はこれ一枚しか持ってない。

 親父も母刀自ははとじもそうだ。

 衣は高い。

 十日に一回は洗って、乾くまではこもにくるまる。

 でも、すぐに洗わないと。

 反吐まみれの衣はイヤだった。

 しかし、乾かす時間がとれない。

 この後、よく絞って、すぐ着るしかない。

 どんなにか冷たいだろう。

 せめて、火にあてられれば。

 今だって、向こうで皆が火を使い、昼餉にしている。


 オレがおのこだったら、はだかのまま、笑いながら、濡れた上衣うわごろもを火にあてることができるだろう。

 でもできない。

 おみなだから……!

 おのこの前では、肌は見せるなと、繰り返し母刀自ははとじに教わった。


「うっ……、薩人さつひとめ、薩人め……。」


 うらごとを繰り返しながら、洗濯を終えた時、


「おい!」


 三虎の怒鳴る声が聞こえた。

 反射的に衣をくしゃっとまるめたまま、はだかの胸にあて、びっくりして後ろを振り向いた。


「三虎!」


 立ち上がる。

 三虎が、二丈(約6m)もない距離を、なぜか怒った顔をして、恐ろしい速さで歩いてくる。

 本物だ。幻ではない。三虎がいつももとどりに挿している黒錦石くろにしきいしかんざしがキラッと光ってる。

 嬉しい、が、今はまずい。

 上衣うわごろもを着たい。

 でも濡れた衣を広げて袖を通すのは、時間がかかる。

 肌にあてた衣の凍える冷たさに、鳥肌をたてながら、


(どうしよう……。)


 オレは固まってしまった。

 あっという間に三虎は目の前にきて、ぎろり、とオレを見下ろした。

 オレはうつむき加減に帰国の言祝ことほぎをする。


「あ、おかえりなさい……。」

「てめぇ、何隠してやがる?」


 三虎が詰問した。


「え? 何も……?」


 あいまいな笑みを浮かべて、オレは答える。


「その衣をよこせ。」




     *   *   *





 ごくりと唾を飲んだわらはがくるりと背をむけ、逃げようとした。

 もちろん逃がす三虎ではない。

 ぱぁんと足払いをかけ、あっと悲鳴をあげたわらはは、頭から前のめりに転ぶ。

 肩を掴んであお向けにし、首を左足で踏んだ。

 ぎゃっと声をあげ、もがくわらはを見下ろしながら、


戸籍計帳こせきけいちょうを調べた。

 吉弥侯部きみこべ 古流波こるはなんておのこいなかったぞ。

 てめぇ、何たくらんでやがる。」


 ぐりぐりと首を踏んでやり、上衣うわごろもを取り上げた。

 どこぞの間諜かんちょうなのか?

 この衣に何か証拠があるのか?

 濡れた衣をぱんと開き、裏、表、とたしかめ、……何もない。


「おい。」


 と見下ろした三虎は、そこに信じられないものを見た。

 驚きに手がゆるみ、濡れた衣は、べちゃっ、と草の生えた地面に落ちた。


 わらはは首を踏んでる足をどうにかしようと、両手の爪で三虎の鼻高沓はなたかくつ木沓きぐつ)を引っ掻き、もがいている。

 鼻を擦りむいて、血が滲んでいる。

 三虎は足をどけた。


「……う、げぇっ、げぇっほ……。」


 わらはは喉を手でおさえ、咳き込み、すぐに起きあがった。

 三虎は帯をとき、自分の胡桃色の上衣うわごろもわらはの肩からかけてやった。

 しゃがみこみ、目の高さをまだ咳込んでいるわらはの高さにあわせ、


「どういうことだ? おまえ……。」


 と、戸惑いつつ聞く。

 わらはは荒い息をつきながら、


「オレだって好きでおみなに生まれたんじゃない!」


 と叫び、わあ……ん、と泣きだしてしまった。




 おみなになんて生まれなきゃ良かった。 

 母刀自ははとじだっておみなに生まれてなければ、あんな酷い目にあわずにすんだはずだ。

 今だって生きてたはずだ……!




 と、筋道の立たないことを叫びながら、わらはは大声で泣いた。しばらく泣いてから、


「オレの本当の名は、吉弥侯部きみこべ 古志加こじか

 でもオレの母刀自は舌足らずだったから、オレのこと、古流波こるはとしか呼べなかったんだ。

 だから、古流波こるは……。

 なんでおのこの格好をしてるか?

 親父に無理やりさせられたんだ! なんでかなんて知らない。

 オレの親父は、母刀自をどこぞのさとからさらって、舌を切ったのさ、最低なヤツ……。」


 とわらはは苦しそうな顔をしながら説明し、また泣いた。

 三虎は、はぁ、とため息をつき、


「わかった、じゃあこれからは古志加こじかと呼ぶぞ。あとオレって言うな。せめて、あたしって言え。疑って悪かったな。」


 と、地面に落ちた濡れた衣を拾って、ぱんと土を払い、渡してやった。

 まだわらはは……古志加こじかは泣き止まない。


「皆のところへ行くぞ。」


 泣き止まない。

 ……オレにどうしろと!


「ホラ、その衣、おまえにやるから、もう泣き止め。」

「……本当?」


 古志加こじかが顔をあげた。

 頷いてやると、胡桃色の上衣うわごろもに手をあてて見下ろし、そのあと乱暴に顔を手で拭った。


 「ふ……、う……。」


 とまだしゃくりあげながら、泣き止もうとしている。













 きんくま様から、ファンアートを頂戴しました。きんくま様、ありがとうございます。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093072932982103



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