注文

尾八原ジュージ

注文

「夕日の色のものはありませんか」

 そう言って訪ねてきた女が何色の装いをしていたのか、思い出すことができない。和装だったということは確かだ。衣紋を大きめに抜いて、白い縮緬の半襟をつけ、真っ白な足袋を履いていたことまで覚えているのに、女の着物の色も、顔すらも思い出すことができない。ただ夕暮れというよりは、とっぷりと暮れた曇天の夜空のような雰囲気の女だったと記憶している。

 わたしはもう二十年近く七宝焼きをやっている。生業と言っていい。

「それらしいものでしたらいくつか……よろしければご覧になっていきますか」

 そう言って座敷に通し、心当たりの作品をあるだけ見せたけれど、女の気に入るようなものはなかった。報酬はじゅうぶんに払うからひとつ作ってほしいと頼まれ、わたしは曖昧な注文に少し戸惑いながらも承知した。

「それじゃ夕日の色のものができたら、いただきにあがります」

「ではご連絡先を」

 わたしが尋ねると、女は「ございませんの」と言った。「顔も名前も住処もございませんので、時々こちらから伺います」

 そう言うと女は丁寧に頭を下げ、あっという間にわたしの家を出て行った。蛇のように素早い動きで、止める暇もなかった。

 戸口から女の出て行った表通りに顔を出すと、すでに女の姿はなかった。


 それから三日後、わたしが夜遅く作業をしていると、突然背中の後ろに何かの気配が現れた。降って湧いたような何ものかの出現が怖ろしく、わたしは後ろを振り返ることができなかった。

 それは背中越しにわたしの手元を覗き込み、「ふう」と嘆息したかと思うと、畳の上をすっすっすっと数歩歩いてふっと消えた。

 その途端、固まっていた体が動いた。すぐに振り向いたが、何もいなかった。ただ、あの足音は足袋で畳を擦る音に違いないという確信があった。

(時々こちらから伺います)

 女が来たのだ、とわかった。


 夕日の色を作るのに、本当に没頭し始めたのはそれからだ。腕は格段に上がったと思うけれど、あの美しく目に染みるような夕日の色を、わたしはまだ生み出すことができない。女も満足できないらしく、時々現れては足袋の足音をさせて消える。

 あるとき、わたしは草木染の作家と知り合った。知る人ぞ知る、腕のいい職人である。話をするうちにわたしはつい、「夕日の色が出なくて」と愚痴をこぼした。と、それまでわたしの作ったブローチを熱心に眺めていた作家が、すっと顔を上げた。

「着物の女でしょ。そのひと、うちにも来ました」

 その作家が注文を受けてからもう十年ほど経つというが、未だに納品できていないらしい。


 女はまだ、時々わたしの家を訪れる。

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注文 尾八原ジュージ @zi-yon

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