第26話 瀬戸楓の過去② 才子短命
嵐が4歳になった時には、私たち兄弟の間でお父さんもお母さんからの愛情に偏りがあるように感じ始めていた。
当時私は小学校一年生に入りたての頃、お兄ちゃんは小学校3年生になっていた。それが私とお兄ちゃんがある程度成長したからなのかどうなのかは今となっても分からない。
当時小学一年生の私は、これから嵐が大きくなるにつれてお父さんやお母さんから構ってもらえなくなるんじゃないかと毎日ビクビクして過ごしていた。耐えきれない時には、お兄ちゃんと公園に出掛けて、お兄ちゃんの胸で大泣きしていた。
お父さんとお母さんの会話を聞いてしまった夜のことをお兄ちゃんに話したときは、お兄ちゃんはそうかと言って、いつも通り自分の部屋で勉強していた。
当時の私とお兄ちゃんの目標は、弟の嵐に負けないことだったと思う。何をやっても嵐には勝てなかったし、お父さんやお母さんの愛情を独り占めしているようで嫌いだと思うこともあったけど、それでも嵐のことを嫌いになることは出来なかった。
嵐はお兄ちゃんにも私にも良く懐いていた。
一度私は耐えかねてあからさまに嵐を避ける時期があった。嵐はそれでも毎日毎日私の元に寄ってきて、勉強を教えて欲しいとか、一緒に遊ぼうとか言ってきた。
当時の私は、何をやっても上手くいかなくて嵐が嫌味で言ってきているように感じてしまったんだと思う。
「うるさいな! アンタは天才なんだから、私みたいな凡人と一緒に遊んでも楽しくないでしょ! どっか行きなさいよ!」
そう言って、私は嵐を突き飛ばしてしまった。
嵐はリビングの床に背中を打ちつける。
私は、床に倒れて苦痛の表情を浮かべた嵐を見て、今自分がしたことを理解する。嵐に大丈夫と声をかける? どこか怪我してない? 近くにお母さんはいる? 誰かに見られた? この状況をどうすべきか自分の中に大量の選択肢が流れ込んでくる。
謝るべきだ。そう私は直感している。それでも言葉が出てこない。私が突き飛ばしておいて、何を謝る? あんなに酷いことを言ったのに謝るのか? それとも突き飛ばしたことにか? そうこう自分の行動が矛盾していることを突いてくる第三者の声が内側から聞こえてくる。
あたふたしていると、冷静な意見が聞こえてくる。
今この現場を見られると、絶対にお父さんお母さんから怒られる。それだけは嫌だ。逃げるか?
目の焦点が嵐から部屋の扉付近に行ったり、嵐に戻ったりする。
どうしよう、どうしよう……。
私は結局その場でモジモジと何も言わず動きもせずに立ちすくんでいた。
謝るべきだ。何を? それとも逃げる? 謝るべきなのは分かっている。それでも怒られるのは嫌だ。嫌いになられるのだけは絶対に嫌だ。じゃあ謝るべきなんじゃないか?
この思考がずっとループしている。抜け目が無い無限ループだ。
そうこうしていると嵐が立ち上がって、泣きそうな顔と鼻をすする姿が目に映る。
やばい。
私はとっさにこう思った。思ってしまった。
それでも、嵐は泣かなかった。
「お姉ちゃんは僕のこと嫌い? 僕はお姉ちゃんのこと好きだし、一緒に遊びたいし、勉強も教えて欲しいし、一緒にバスケもしたいよ。」
服の裾をギュッと握って、堪えきれなかった涙が服の上にポタポタと落ちている。
「僕は天才なんかじゃない。お兄ちゃんやお姉ちゃんがすごいから僕も頑張ってるだけなんだよ……うぅ……」
私は嵐を抱きしめていた。
「ごめんなさい。ひどいこと言ってごめんなさい。突き飛ばしたりしてごめんなさい。」
あれだけ邪魔された謝罪の言葉が今度は息を吐くように自然に出てきた。
頭で考える前に声に出していたのだと思う。心からの謝罪とは意外と感情はこもっていない単調な言葉になるのかもしれない。
嵐は私がごめんと謝るたびに、いいよと私の服を握りしめて言った。
私の肩に手が乗る感覚で頭を上げた。
「お兄ちゃん」
目に涙が溜まっていて、すりガラスのように誰がそこに立っているのかモザイクがかかっていたけれど、自然と誰がそこにいるのか分かった。
「さっき帰ってきた。何があったのかは大体分かる。俺たちは兄弟だ。こんなすごい弟を持ったことを誇りに思おうぜ、楓。」
私はお兄ちゃんの言葉を聞いて、私よりもずっと悩んでいたんだと分かった。今までお兄ちゃんは自分が悩んでいるところを私たちに見せなかった。それでも1人で一番努力して、頑張った上での決断なんだと思った。私の視界は余計にモザイクが強くなって、お兄ちゃんの顔が見えなくなる。それでも多分笑っているのが分かる。お兄ちゃんの笑顔なんて随分久しぶりに見た気がした。
「ありがとぅ……」
私は掠れた声を振り絞って出して言った。
「あ、それと嵐、俺はまだ負けを認めたわけじゃ無いからな? 人生は長いんだ。これからいくらでもチャンスはあるんだぞ?」
「うん? お兄ちゃんは何と戦っているの? 僕たち何か勝負してたっけ?」
嵐はカラッとした声で聞き返していた。
私とお兄ちゃんは、嵐の声を聞いて笑い飛ばした。今までの想いも悩みも。そしてこれからは兄弟3人で、お互いに切磋琢磨していく、そんな未来を見据えて。
――――
私と嵐の事件が起きてからは、兄弟の仲は格段に良くなった。お兄ちゃんは今まで1人で練習をしてきたけど、私と嵐も付き合うようになったし、お兄ちゃんは私に、私は嵐に勉強を教えるようになった。
嵐は私の教えなど必要ないと思っていたし、そう思うけど、嵐はすげー、すげー! と言って真剣に聞いてくれた。
私もお兄ちゃんも嵐も今までの冷戦状態から一転して、それぞれ楽しんで努力できるようになっていた。それぞれに教え合うため、すごいと言わせるためにお互いが頑張る、よい循環が出来ていたと思う。
お父さんもお母さんが嵐を褒めても特に何も思うことは無くなった。
学校にも慣れてきた頃だ。給食を食べ終わって、友達と昨日のテレビの話をしていた時だ。いつも冷静沈着なベテランの担任の先生が教室に走ってきて、私にすぐ帰る準備をしなさいと言ってきた。何事かは分からなかったけど、聞いていい様子でないことは当時の私でも察することができた。
帰る準備をして校門まで歩いていく途中でお兄ちゃんにも会った。お兄ちゃんもランドセルと背負っていて私と同じ状況だと分かった。
校門には、お父さんが迎えに来てくれていた。
校門の近くに停めていた車の後部座席に乗り込む。私もお兄ちゃんも何があったのか聞けなかった。聞いて良いのか分からなかったし、今思えば聞きたくなかったんだと思う。
「嵐が倒れた。今病院に母さんといる。」
お父さんは胃から胃液と一緒に絞り出すように言った。
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