第7話 瀬戸楓の困惑


 入れ替わって数日が経ち、瀬戸楓も丸山太一の体に慣れてきていた。

 今まで太一くんのことを何も知らなかったが、いろいろ大変な生活を送っていた。

 例えば、太一くんは今一人暮らしをしている。太一くんの実家は県外にあり、学校まで通うには電車の始発に乗り、電車、電車、バスと2回乗り換えて、学校まで来る必要があったからだ。


 楓は今まで一人暮らしをしたことがない。

 家に帰れば、食事、洗濯、風呂、掃除、全て親がやってくれていたから、楓のやりたいことを全力で打ち込めていたのだと思う。


 少しは一人暮らしに興味はあったが、楓は元々1人よりも誰かといる方が好きなタイプなので、今すぐに一人暮らしができて嬉しいという感情にはあまりならなかった。

 それでも、楓は太一くんと入れ替わって、やりたい事がいくつかあった。例えば、アルバイト。太一くんはファミレスでアルバイトをしている。アルバイトで高校では出会えない大人の人や違う高校の人などに出会えて、また違う経験ができると思ったからだ。それに、自分でお金を稼いでみたいという思いもあった。


 他には、男友達を作って、男の子ならではの話をしてみたいと思っていた。楓は決して男友達が少ないわけではない。ただ、やはり女子と男子では話の内容も違うし、女子が男子に話せないことがあるのと同じで、男子も女子に話せない会話がある。


 楓の中で妄想は膨れ上がっていた。

 きっと男子の中では、クラスの女子で誰が好きかとか、一番かわいい子は誰かとか、先輩だとこの人がいいとか、女の子のこういう一面が好きとか話しているに違いない。いや、もしかしたら、ほんの少しだけエッチな話とかもあるかもしれないけど、こんなチャンスしか無いんだから、聞いてみたい。


 太一くんからは、「今の人間関係を続ける」というルールが作られてたけど、そもそも太一くんが誰と友達なのかとか楓はよく知らない。

 ルールを破ったペナルティとかも決められてないし、怒られた時は謝ればいいかと軽く捉えていた。


 楓は、何度か話したことのある前野くんに話しかけてみることにした。前野くんはクラスでも友達が多くて、男子女子関係なく明るく接してくれるから話しやすい。いくら太一くんが隠キャとは言え、前野くんなら悪くはされないはずだ。


 「ごめーん、次の授業って宿題あったっけー?」

 これぞ、楓もよく使っている会話の入り口に宿題を使う戦法だ。

 学校の中にはいくつもの共通の話題がある。先生、友達、授業、部活。これらの中で1番共通の話題かつ共通の認識を持つであろうものが宿題だ。


 宿題は、クラス全員に出されるのが通常だし、宿題を嬉々としてやってる生徒なんて見たことない。つまり、前野くんが、「宿題、これとこれがあったよ〜」と返事をすれば、「あー、これ忘れてたわ」とか、「マジめんどくさいよなぁ!」とかいろいろ話せるし、ハズレの回答がない。


 もちろんこれは入り口に過ぎない。宿題の話題なんて、一瞬で話すことがなくなってしまう。

 しかしここから、部活やプライベートの話に移っていけば、自然。

 これから仲良くなるきっかけに過ぎないという事だ。


 さぁ、何でも返事してくるがいい! 楓はどんと構えて前野くんの返答を待つ。

「え? いや、無かったと思うけど。」

 前野くんは気まずそうに、下を向いて次の授業の準備を始めた。



 え? これ話しかけてくるなオーラ出されてる?

 楓にとってみれば初めての経験だ。

 当然楓が話しかければ、みんな嬉しそうな顔をしてくれる。男子なら特にだ。今の行動に失敗はない。それなのに、明らかに煙たがられている。これは楓のミスではなく、太一くんが話しかけるということ自体が間違いだったのかもしれない。


 いや、早まるな私。楓は自分に言い聞かせる。

 さっきはたまたま前野くんが忙しかっただけでタイミングが悪かった可能性がある。


 次だ。


 授業中。みんな逃げ場がないし、誰かがボケればきっと誰かが拾ってくれる。なぜなら、授業中にボケをスルーしたら、空気が大変なことになるからだ。夫の浮気が発覚した時の家族会議くらい酷いことになる。もちろん、楓は授業中にそんな雰囲気になったこともないし、そんな家族会議を経験したこともない。


 どうせ滑っても、楓本体にはノーダメージだと言い聞かせて、これから行う計画に拍車をかける。

 楓は誰も挙手しないタイミングを見計らって、勢いよく手を上げた。その動作はまさしく陽の者の振る舞い。教室にスポットライトがあれば、一斉に楓に当たるに違いない。太一くんならば耐えられない光景だ。しかし、瀬戸楓にとってみれば、日常の一コマに過ぎない。


 楓は声を張り上げず、可能な限り低い声で言い放った。


 「分かりません……!」

 時が止まった。春から夏に変わりつつある今日この頃、この瞬間だけ、季節は冬へと戻った気がした。


 念の為、何が起きたか説明しよう。

 これは中学生ならクラスの笑いを掻っ攫う一発芸のようなものだ。元気よく手を挙げたくせに、分からんのかい! というやつだ。

 自慢じゃないが、楓自身がこれをやれば人笑いは取れる。

 楓だけじゃない。佐々木くんも前野くんもよくある手法なはずだ。もちろん、友達に言われてやることの方が多いが、これをするおかげで授業中の雰囲気が良くなり、先生もまんざら嫌な顔はしない。


 しかし、どうだ。今の先生の顔は。

 顔は引き攣っていて、こちらを睨みつけている。

 いらんことすんなや……! という心の声が伝わってきそうだ。


 ドクンッと心臓が跳ねて、心拍数が上がるのを感じた。

 楓は直感的に、やばいと感じていたが、これまでの人生で今のような状況になったことがない。


 脳が正常に機能していない。立ち上がった体が椅子に座ることも躊躇ってしまう。


 どうしよう……。どうしよう、どうしよう!


 楓は、ジワジワと顔が赤面してくるのを感じた。

 「いや、丸山くん、そんなキャラじゃないでしょー!」

 静まり返った教室の沈黙を破ったのは、瀬戸楓になっている太一くんだった。


 太一くんは、笑顔を見せて明るい口調で言ったが、ちらりと楓を見た時の目は、全然笑っていなかった。

 太一くんの発言に続けて、陽菜も続ける。

 「そうだよー! どうせ佐々木が何か言ったんじゃないのー?」

 陽菜も白い歯を見せて、佐々木くんを指さして笑った。


 「バッカ! そんな訳ねえだろ!」

 いつも先生からの質問にはのらりくらりと返す佐々木くんも、こういう時の反応は早い。

 その流れを見て、いつもの明るい雰囲気に戻った。

 楓に安堵の津波が押し寄せてくる。それでも真っ赤になった顔から熱が冷めるには時間がかかった。

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