渡河

十余一

誰そ彼

 一人の男が、かわを前に茫然と立ち尽くしていた。

 もうじき酉の刻18時ころになるだろうか。燃えるような光に照らされ世界の全てが赤く染まっている。滔々とうとうと流れる河も足元を掬う角張った岩も、まるで血が溶け込んでいるようだ。男の頭上では、死体もないのにからすが輪をえがく。くちばしが光を反射し、煮えたぎった空に似つかわしくない金剛の煌めきを放っていた。


 生温い風が吹きすさぶ河原で、男は考える。おのれは何故このような処にいるのか。そもそも何処からやってきたのか。頭の中はぼんやりと霞がかり何一つとして思い出せない。ただ、目の前の河を渡らねばならぬという気持ちだけが、漠然と心の中に燻っていた。しかし、それは己が内から湧いてくるものではない。誰か、あるいは何かによって背を押されるが如く、焦りにも似た感情と共にある。



 男が河縁かわべりの渡し場に着くと、一そうの小舟が泊まっていた。舟は水面に浮く葉のように揺れている。向こう岸を望めぬ大河に漕ぎだすには少し心許ないが、身一つで行くよりはまだ良いであろう。何せ濁った河は深さも定かではない。

 渡し守はかいを持っていないほうの手を差し出し、男に催促する。

「銭か?」

 男が聞くと渡し守は黙って首を縦に振った。男は銭など持ち合わせていない。それどころかおよそ富とは無縁の身なりをしていた。山吹のひとえは擦り切れ、紺の表衣うえのきぬは色褪せて見窄みすぼらしい。結い上げた髪は乱れ、頬はこけ虚ろな目をしている。


 短い髭の中にある面皰にきびを引っ掻きながら男は己の行く末を憂えた。渡河せねばならぬという漠然とした気持ちは、不安と焦燥によって膨れ上がる。手段を選んでいるいとまはない。舟を無理やりにでも奪ってしまおうか、とさえ考える。だが考えるだけだ。男は盗むという悪事と、その悪事に己が手を染めることを、肯定する勇気を出せなかったのである。


 そうしているうちに後からやってきた直垂ひたたれ括袴くくりばかまの男が渡し賃を払い、船に乗り込む。舟に乗った二人は、岸に取り残された男に一瞥いちべつもくれることはなかった。



 男はどうにか河を渡れないかと彷徨さまよい歩く。横たわる黒々とした山を尻目に、血潮のような流れに沿って探す。しかし舟も浅瀬も見当たらない。それどころか河の流れは勢いを増し、轟々と音を立てる。


 ほどなくして男の目前に大樹が現れた。幹はうねり、枝は澱んだ空を穿つ。根元には痩せこけた背の高い老婆が座っていた。男は、その白髪頭にかすかな見覚えを感じた。ここではない何処かで見た背の低い老婆の背中。雨の夜、揺らめく灯火ともしび、無造作に棄て置かれた死骸、そして――。


 思案はそこで途切れた。振り返った老婆は男を見るなり、いしゆみにでも弾かれたように飛び掛かる。慌てふためき逃げようとした男は石につまずく。

 行く手を塞ぐ老婆のはだけた胸元には垂れた皮膚と浮き上がる肋骨。鶏の足のような、骨と皮ばかりの腕のどこに力が秘められているのか。押し合いつかみ合いの末にねじ伏せられた男の頭に「太刀さえあれば」という考えが過ぎる。


 そうだ、太刀だ。困窮の底にあっても決して手放さなかった白い鋼。その行方を探るべく記憶を辿り、男は思い出した。かつて自分が引き剥がした檜皮色ひわだいろの着物を、己の足に必死にしがみつく老婆の姿を。そしてこの河を渡る意味を。


 男は、かつて己がされたように弁明する。

「仕方なくした事だ、大目に見てくれ。仕方なくした事だ!」

 老婆もまた、かつての男がしたようにあざける。

「己が仕出かした事ぞ。恨むのなら、己が身を省みて恨むのじゃ」

 老婆は男の襟を掴み上げ、すばやく着物を剥ぎ取った。どれだけ許しを請い、救けを求めても酌量されることはない。蹴倒された男は這って老婆を追いかける。見上げた先には、ただ、赤々とした空があるばかりである。


 色褪せた紺の衣を懸けた大樹の枝がしなる。男は己が犯した罪の重さを知った。

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渡河 十余一 @0hm1t0y01

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