重ねた嘘は夕日と沈め

西野ゆう

第1話

 秋になったとはいえ、まだ日中は猛暑日だ。

 午後四時を過ぎても、気温が下がる気配はまだない。

 木陰のベンチで待ち人が来るのを、スマホの画面を見ながら待っていた。

 一週間前からのやり取りを読み返す。

 決心したつもりだったが、ここにきて本当に会っていいのか、会って何かできるのか不安になっていた。

 ひぐらしの声を浴びて、その不安も大きくなる。

 いつ命尽きてもおかしくない者たちの鳴き声を。

 スマホから視線を外すと、正面の真っ白な建物から、スウェットにニット帽をかぶった男性が周囲を見渡しながら歩いてきた。荷物は小さなリュックを背負っているだけだ。私はその男性に手を挙げた。昨日友人に学校で見せた笑顔を思い出し、その形を再現させた顔を向けて。

綾音あやね……かな?」

 男性が頭を掻きながら、少し顔を斜めにして訊いた。

 予想していたよりも背が低い。かろうじて私よりも高い程度だ。

「うん。……久しぶり、お父さん」

 会った時に言うセリフはいくつか考えた。

「元気そうだね」「変わらないね」「会いたかった」

 それらは使えなかった。なぜなら、全部嘘だからだ。

「久しぶり、って言ったって、憶えてないだろ? 最後にあったのはまだ二歳の時なんだから」

 彼はやはり頭を掻きながら苦笑している。

「そうだね。そうだけど、久しぶりは久しぶりじゃん」

「まあ、そうだな」

 柔和な笑顔に少しホッとした。

 私からの連絡で、ホスピスからの退院を選択した彼。元々つい棲家すみかとして自宅はそのまま残していたらしい。

 その自宅へと肩を並べて向かう。

「実はね、もしかしたら連絡来るかも、って期待はしていたんだ。SNSに登録した時から」

 電車に乗ると、彼は不意にそんなことを話し始めた。

 私も私で、これまでのやり取りで、私が名前を見つけた後も、連絡をするか悩んでいたと打ち明けていた。人違いではないことは、投稿内容とプロフィールで明らかだったが、勇気が出なかったのだ。本当に連絡をして良いものか。

 それでも、今は後悔していない。

 頬はこけ、眉毛やまつ毛までも抜け落ちた顔を見るのは辛いが、それでも笑顔を見せてくれている。

「曇って来たな」

 振り向いて車窓からの空を見ると、さっきまで水平線の上にあった青空が、灰色に染まっていた。

 その空は、海辺の丘にある彼の家に着いても晴れなかった。ついには空が泣き始め、ひぐらしの声もしなくなった。

「今日はダメだな……」

 そう言いながら、空と同じく灰色になった海を見下ろして、憎々しさを僅かに含んで平坦な声で言っている。それを聞いて私は「うん」としか返せなかった。

 最期の願いと頼まれた夕日が見られるまで、私はこの家に留まろうと決めた。

「母さんは良いのか?」

 私の気持ちを伝えると、彼はそう言って心配した。だが、それには及ばない。数日学校を休むことと、家には帰らないこと、もちろんその理由も家族には話してある。寧ろ、私には他の心配があった。

「大丈夫。約束したことも話してあるから」

 そうだ。約束したのだ。この約束を破るなんて、私にはできない。もし破れば、一生後悔する。

「とっくに死んだと聞かされていた人間を見つけたと思ったら、今度は本当に死にかけてる、なんておかしいよな」

 相変わらず窓の外に顔を向けているが、もう外は暗くなり始めていて、窓には彼の苦悶の表情が映っていた。病気に侵された痛みが出たのか、別の痛みか。

 どちらにしても「おかしい」とは哀しい言い方だと思った。でも、そうとしか言えないのだろうとも理解できた。

「そんなことないよ。今、話ができて良かったと思うよ」

 私も私で、話ができて「嬉しい」とは言えなかった。

 明日の夕方は晴れるだろうか。だが、私の口からは決して「夕日が見れたらいいね」とは言えない。それが果たされれば、彼はすぐに逝ってしまうような気がしたからだ。それを私が望んでいるように聞こえてしまうからだ。

「明日は晴れるといいな」

 私のそんな思いとは裏腹に、彼は心底そう願っているように呟いた。スウェットの胸の部分を掴んで。


 海に沈む夕日をふたりで見たのは、結局三日後だった。

 夕日を見たとき、きっと「きれいだね」などと話すのだろうと思っていたが、そんな言葉も出なかった。

 私はただただ泣いていたし、彼は唇を噛んでいた。

 そんな彼が、思わぬことを口にした。

「綾音は、いつまで生きたんだい?」

 思わず唾を飲み込んだ。いつバレたのだろう。私が彼女に成りすましていることを。

「綾音が亡くなったのは、私がおじさんに連絡した二日前です」

「そうか……」

 夕日は下から海に溶け始めていた。

「いつ、気付かれたんですか?」

「たった今、綾音が迎えに来たからね。未来みくるさん、ありがとう」

 私が口にしていない私の名を呼ばれ、私は彼の後ろに綾音の笑顔を見た。

 彼女との約束を守り、彼女のフリをして、彼女の父親を励ました私に、綾音は笑顔でいてくれた。

「命が溶けているみたい」

 独り言になった私の言葉も、海に溶けていた。

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重ねた嘘は夕日と沈め 西野ゆう @ukizm

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