ホットケーキ・(リ)ミックス
吉野茉莉
ホットケーキ・(リ)ミックス
モータの回転音が静かに部屋を満たしている。
いや、それも演出なのかもしれない。どこかで人は完全な無音には耐えられないと聞いたことがある。それくらいの設定はこの部屋ではされているだろう。
曲面で覆われた角のない部屋にいるのは私と彼だけだ。
人工的な光が目に優しく私たちを照らしている。これはまだ私たちのいる世界が午前中であることを表している。私たちはまだ起きてから一時間ほどしか経っていない。
「どうしてそんな面倒なことを。せっかくの休みなんだからのびのびしようよ」
部屋の片隅に立つ私に彼が言った。
「せっかくの休みだから、よ」
「ふーん、いいけどさ。こっちに来ればいいのに」
「今準備中。もうちょっとだから」
ぶつくさと不満を呟いている彼をなだめる。
「はいはーい」
彼は備え付けの窓から外を見ている。
「君だって、外を見てばっかりじゃない。何が面白いのよ」
「面白くはないけど……。最近ぼんやりとしていなかったからね。ぼんやりするのって、案外重要なんだ。知ってたけどね」
「そうね、それはそう」
彼の瞳にはきっときらきらと星が輝いて映っていることだろう。むしろ、それ以外に映るものはない。
昔の人は科学が発展すれば人々はほとんど働かず余暇に時間を使うようになると言ったらしい。確かにその面では大部分がそうなったといえるし、非人道的ともいえる過重な労働は過去のものとなった。エネルギィ問題がほぼ解決し、生きるために働くことは少なくなった。よりよい暮らしをしたい人だけ、あるいはその行為そのものが好きな人だけ、無理のない範囲で働くようになった。
だから人々はゆっくりと生活をするようになったのか。
そうはならなかった。
結果的に、人生そのものが忙しくなった。
とにかく社会は忙しすぎる。効率化されすぎて余暇まで侵食してしまい、いかに効率的に余暇時間を過ごすか、をみんなで競い合っているかのようだ。余暇に何をしたか、せっせとメモリに移し込んで、職場で披露するか、ネットに楽しげにアップすることばかりを考えている。
もちろん、批判的に言ったところで、私も普段はそうしている人間の一人であることに間違いはない。
「懐かしいね。といっても僕が生まれたばかりの頃の音楽だ。僕は知識でしか知らない」
部屋の中では、落ち着いた懐かしさを誘うクラシカルな音楽が流れていた。人間の寿命はどんどん長くなっているのに、それに反するようにやるべきことが増え続けている。
暇は発明の母、という言葉があったような気もしてくる。だとすれば、人類はもう何も発明できないかもしれない。
「こんなときくらい、『お手伝いさん』にやらせればいいのに」
彼が窓からいったん目を離し、こちらを見る。
懐古趣味のない彼は、シンプルな服を着ている。私のスカートの方がクラシカルだろう。
彼が壁からにょっきりと伸び出た二本の棒に視線を送る。二本の棒は器用にコールドボックスから黄色い液体を取り出し、彼の前に差し出した。彼がそれを受け取って口元へと運ぶ。
「苦い」
彼が飲んでいるのは化学的に合成された飲み物だ。もっとも、今となっては自然にある飲み物よりは安全だ。
「こんなときくらい、よ」
紙袋の端を手で切り、そろりそろりと目の前の金属製のボウルに落とす。
ぶわっと小麦粉が小さく舞って、毎日のように外で降っている淡雪みたいにいくつかの塊になってボウルに落ちる。骨董品屋でそういえばこんな置物を見たことがあったな、と思い出す。何のための道具だっただろうか。
ベーキングパウダーと塩、砂糖をコールドボックスから取り出して、降り積もった雪の中に重ねていく。
「ふうん。それがやりたいからこれを借りたんだ、変なオプションだと思っていた」
一瞥してどうにも納得しきれていない様子の彼に構わず、私は作業を続ける。キッチンが付属しているものは珍しく、その分オプション料がかかった。
ボウルの粉ものを軽く混ぜ合わせ、その上にミルクと卵を落とし、あくまで力任せではなく、丁寧に混ぜ合わせる。
ここが愛情の入る余地なのだ。
愛情?
「それ、まさか卵?」
「そのまさかじゃない、なに言っているの」
私はあくまでレシピに従っているだけだ。
「卵かー。それって生きていたってことだよね?」
「そうかな、よくわからないけど」
「珍しい」
『鶏卵。主に受精されていない無精卵を用いる』
二人の会話に優しい声が割って入った。
「ほらー、すぐに調べるの禁止」
音声なら彼だけに聞こえるようにセッティングできるはず。
「でもさー」
「ゆっくりしようと言ったのは君なんだからね」
「そうだったそうだった」
なにもない暇を捻出したのは本当に久しぶりだった。昨今では健康管理プログラムが肉体から精神まで管理して、隙あらば余暇にすべき最適な行動をプレゼンしてくる。私たちもそうしていれば安心だから、ついつい従ってしまう。多くの人がそうしているだろう。外に出ることは危険そのものだし、人々はどんどん引きこもりになっている。
「どこで手に入れたの、そんなの」
「スーパ」
「あったかなあ、そんなの」
「あったあった、スーパナチュラルフード」
「ああ、『主義』の人たちのお店ね」
「そう言う言い方、怒られるよ」
「どうせ聞いていないよ」
「そういうのって、つい口から出てきちゃうものなんだから」
「はいはい、気をつけるよ」
彼が手をひらひらと振る。
この現代社会において、科学的なものから離れて、なるべく自然的なものだけで生活をしよう、という主義主張を持つ人々が一定数いる。彼らのことを揶揄するかのように、一般の人は『主義』と呼んでいる。そういう人たちに配慮して、あるいは商売として成り立つがゆえに、そういった自然物と呼ばれるものを扱う店があって、他のお店と同じようにサイトから購入することができる。別に私たちと『主義』の人たちの間に激しい争いがあるわけではない。個人の意思を尊重するのが今や当たり前になった。個々人の意見はあるがそれはそれ、という雰囲気に世の中がうっすらと支配されているためだ。そもそもそれ以外でも争いが起こることが少なくなった。そういったことにエネルギィを使っても意味がない、という判断をすることが多くなったのは、やはりエネルギィ問題がなくなりつつあり、そこまでして奪い合うものは存在しない、ちょっとだけ我慢すればいいだけ、とみんなが思っているからだろう。それは、きっと、人類の到達点の一つだと言える。
『主義』の人たちが使うものは、流通数の問題なのか若干割高なのか玉に瑕だ。しかし、今回は奮発してもいいだろう、という私の判断があった。これは私だけの判断である。
「だいたいさ、そういうのだって、量産化した科学のたまものだと思うけどなあ。完全な野生じゃないんでしょ」
彼がぼやく。
「まあ、気持ちの問題なんじゃない?」
「そうだね、最後はなんでも気持ちの問題だ」
私も彼も『主義』ではない。
「この旅行だってそうじゃない」
「そう、その通り」
今回の旅行は、何度も何度も本当にそれでいいかと念を押してくるプログラムを押し切ってわざわざ自分たちで選んだものだ。機械に反抗しているようで、そこはかとない高揚感があったが、それを彼に言っても馬鹿にされるだけだろう。
機械だってその反抗を加味していないわけじゃない、みたいに言うに違いない。しかもたぶんそれは事実だ。
「あとどれくらいだっけ?」
彼が右こめかみをトントンと叩いてから私に聞く。
「さあ、二時間くらいじゃなかった?」
適当に返事をする。彼だって、一秒単位で残り時間が見えるはずだ。それが彼のコンタクトレンズを通して眼前に表示されている。
私の左目にはレシピが文字情報で映っている。意識すれば動画も流せる。
「弱火でお願いね」
キッチンの電熱線に囁くように語りかける。音声認識をした調理台は、ほのかに熱を帯び始める。
コールドボックスからこれも天然物のバターを一切れ出して温まり始めたフライパンに乗せる。
手のひらをフライパンの上に近づけ熱くなり過ぎない程度に温まったのを確認したら、タネを一すくいしてフライパンの中央に広げる。
あとはじっくり弱火で、気になっても決して触らない。
数分してぷつぷつと表面が膨らんできたら、腕の見せ所だ。
フライ返しをタネとフライパンの間に滑り込ませ、いけそうかゆらゆらと試す。
今だ。
「とりゃ! おりゃ!」
「おう?」
勢いをつけた掛け声に、遠くで彼が反応する。
「……なんでもない」
端がめくれてしまったそれを見下ろして、彼に聞こえないように溜息をつく。掛け声が二回あった段階で結果は推し量るべし。
フライ返しでちょこちょこと成形をして見た目を整え、あとは反対側に焼き色がつくのを腕を組んで待つ。
「さあ、できたよ、召し上がれ」
私はフライ返しで半分に切ったそれを、二枚のプレートに乗せてテーブルまで運ぶ。
「ほら、座って座って」
彼に声をかけて、テーブルまで誘導する。
満足げな私とは対照的に、彼はあまり嬉しそうではない。
「どうしたの?」
テーブルに乗ったそれを指さし、彼が言う。
「これって、要するに小麦粉と牛乳と卵を混ぜて焼いたものでしょ? わざわざ手作りするようなもの? 自然物にするにしても、できたものを買えば同じじゃないか。それに」
彼がそれを指していた指を自分の右頬へ持っていき、私の顔を指さした。
「へ?」
「ついてる。拭いてあげて」
にょっきり棒がタオルを持ってこちらへ向かってくる。
「自分でできるから」
すんでの所で棒からタオルをむしり取って、自分でゴシゴシと顔を拭く。
「取れた取れた」
「ありがと。それで、食べるの?」
「でも、『生』なんでしょ?」
「ちゃんと焼けているよ」
「いや、そうじゃなくて」
「そう、嫌なら食べなくて結構」
どうも材料が自然物であることに抵抗感があるようだ。少なくとも、私の料理の出来不出来の話をしているわけではないらしい。
「食べるよ食べる。ごめん言いすぎた」
腰に手を当てて、顎を上げた私に、彼が手を振って降参する。
「ならよし、じゃあ、これをかけて」
テーブルの上に、琥珀色の液体が入った小瓶を置く。小瓶は私の手のひらで隠せてしまいそうな大きさだ。
テーブルに置いた振動で、中の液体がとろりと揺れた。粘性がずいぶんと高い。
「これ、まさかこれも天然?」
「えへへ、うん」
「木から採るの?」
「そうそう、それは知ってるんだ」
「昔学校で習った気がする。もう120年くらい前?」
「そう」
「そんな贅沢をしなくてもいいのに。いくらしたの」
右手を広げて顔を覆い、大げさに嘆くジェスチャをする。
「まあまあ、いいじゃないこれくらいの贅沢。普段質素なんだから」
「まあ、買ってしまったものは仕方ない」
彼が小瓶の蓋を取り、恐る恐る、といった感じでテーブルの上のそれにゆっくりと垂らす。
「ええ、ままよ!」
「君の言い方こそ何百年前の話なの」
勢いをつけて彼がフォークでそれを刺し、口に放り込む。
「どう? 美味しいでしょ?」
小首を傾げて、自然の甘味で化粧をされたそれを咀嚼している彼に聞く。
「検索するのはなし、君の感想が聞きたいんだよ」
「……そうだね、小麦粉と牛乳と卵とシロップの味がする。こう、ダイナミックかつエクセントリックな、絶妙な組み合わせにより、リタルダンドな甘みが口いっぱいに広がり? まあ、そんな感じ」
絞り出すにしてももっとまともな言い方があったはずだ。人間は日々の生活を検索に頼ることによって愚かになっていっているのかもしれない。
「はあ、まったく作りがいがないんだから、あ」
突然音楽がブツリと切れ、スピーカから流暢なアナウンスが聞こえる。
『到着準備の時間になりました。着席後シートベルトを確認し、人工重力発生装置のスイッチをオフにする準備をしてください』
「ああ、ようやく、か。出発して十時間? まあでも寝ていたからそんな長い気もしないけど、無駄だったかなあ」
「せっかくだから船で行こうって言ったのは君じゃないの」
「そうだったかな。でも、転送装置よりは風情があるよやっぱり」
「風情、ねえ。さっきの私のとどっちが風情があるんだか」
「気持ちの問題」
立ち上がり背伸びをした彼が、外の景色を眺める。
遠くに見える点を前に出した右手で操作してズームをする。
その映像が広がって私の前にも表示された。
赤土の大地にところどころドームが点在し、そこだけ不自然に自然な緑や青で染められている。緑は森で、青は海だ。どちらももう地球上ではヴァーチャルの世界にしかない。
西暦2300年代の旅行は高級な趣味で、さらに転送装置を使わない宇宙船での移動は高級の極み、または暇人の極みと言える。
「最初の行き先、どこだっけ?」
「えーと、ちょっと待ってね」
私は、右手をかざし、指を二本立て左右に振りホログラムを呼び出し、浮いた文字たちを読み上げる。ハンドブックは『お気楽火星二週間旅行』だ。
「ええと、二十一世紀初頭の東京のレトロな街並みを忠実に再現したドームだって」
それを聞いて彼が曖昧に笑う。
「なにそれつまんなそう」
ホットケーキ・(リ)ミックス 吉野茉莉 @stalemate
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