月桂冠の墓場

日暮ひねもす

プロローグ 信仰の亡骸

 七月の第二週。梅雨明けもそこそこに気温は三十度を超え、湿度は高いままの、生きるにふさわしいとは思えない日。私は、部屋の真ん中で途方に暮れていた。

 文机の上で倒れたインク瓶。ペン先の折れ曲がった万年筆。ぐちゃぐちゃになって散らばった原稿用紙。そこら中に積み重なって崩れた本の山。

 叩きつけられて壊れた数々のトロフィー。真っ二つに割れた栄光の盾。

 部屋に充満する腐敗臭。

「師匠」

 私は、私に言い聞かせるように、ゆっくりと声に出した。

「師匠が、死んでしまった」

 私の信仰が、死んでしまった。


 小説家・別重菖蒲べつしげしょうぶの自死は、わりあいセンセーショナルな事件として世間を賑わせた。大衆的な作品を書く作家ではなかったが、文学作品としては高い評価を受け、受賞歴もあったので、名前くらいは耳にしたことのある人間は多かっただろう。

 週刊誌やニュース番組なんかは、「別重菖蒲の輝かしい人生とその裏の苦しみ」だとか「スランプで鬱病か 人気作家・別重菖蒲の自殺」みたいな適当な見出しをつけていたが、私はそれが間違いであることを知っていた。

 師匠は死んだのではない。殺されたのだ。あんな作品を書く人が、あんな栄光を得た人が、スランプなんぞで死ぬものか。そもそも師匠は作品の執筆途中だった。スランプだとはとても思えない。第一発見者は私だったけれど、警察はまあ自殺でしょうねと言って片付けてしまった。


 ――いやあ、部屋は荒れてますが争った様子ではないし、どうやったってこの形の他殺はないですよ。奥さんを亡くしてから一人暮らし、合鍵を持っていたのは美作みまさかさん、あなただけですか。で、あなたはここ二週間日本にいなかったんでしょ? まあ……一応これから色々調べますけどね、大丈夫ですよ、殺されたってのはないでしょう――


 ほどなくして、改めて別重菖蒲、本名別重荘三郎の死は「自殺である」と断定された。瞬く間に事件は広まり、小説家の自殺という面白い話題に憶測が飛び交った。第一発見者かつ唯一の弟子かつ小説家という立場の美作むさを世間が放っておかないわけがなかった……と思いきや、師匠と私の関係は公になっていなかったので、私は一人で信仰の死を抱えることになった。

 夏なこともあり、遺体の腐敗はそこそこ進んでいたらしい。特殊清掃業者が片付けたとは聞いたが、遺品の整理は私がやりたかった。深い緑の中にある、広い和室。山奥なんだから涼しいのに、それでも人は腐るのか。別重菖蒲、享年五十七。あまりにも変な心地だった。蝉の音が静けさを増すとはこのことだろうか。師匠が死んでから、師匠も人の形をしていたのかと、私はずっと不思議に思っている。師匠は神様なのに、腐敗して、朽ちていくのか。この世に戻っていくのか。そうか魂が抜けてしまったからか。科学的でない思考が頭を埋め尽くす。盾やらトロフィーやらが納められていた棚は硝子戸が割れていて捨てるしかなかった。何も残らない。亡骸の代わりに、私はただ白紙の原稿用紙を抱える。紙の原稿は私がいない間に燃やしてしまったらしい。庭に出て私は呆然と灰を眺めた。

 なぜ、なぜ。

 なぜ師匠はこんなことをしたのだろう。弟子入りしてから十年と少し。今一番聞きたいことがあるのに、肝心の師匠はいなくなってしまった。

 二週間前の師匠とのやりとりをざらざらと頭の中で流す。キャリーバッグを携えた私と、菖蒲師匠の生前の最期のやり取りを。誰かが言っていた。薬を飲み忘れたから? 鬱が再発? 違う。そんなわけない。そんなの、二十年も前に回復しているのに。私は知っている。師匠は、たぶん。

 

 たぶん、私が殺した。

 

 緩慢な動作で自宅のマンションに電話をかける。今日は家事を頼んだから、この時間なら雀人じゃくとがいるはずだ。三コール目でカチャリ、と音が聞こえた。

「もしもし、雀人」

「あれ、むささん。どうしました」

「雀人、前から広い家に住みたいって言ってたよね」

「え……まあ。狭いですからね、俺の家。なんですか突然」

 電話の向こうから怪訝そうな声がする。

「一緒に山奥に住もうよ」

「え? むささん、別重さんの遺品整理に行ってるんですよね? 家の契約じゃなくて」

「そう。あのさ、師匠の家に一緒に住もう。お金の心配はいらないから」

 私は、提案が却下されることを考えてもいなかった。雀人に断られても私一人で暮らしていくつもりでいた。

 この部屋で、師匠を悼もうと思ったのだ。私が殺してしまった師匠への、長い長い追悼。それは終わりの見えない罪悪を背負う道への一歩目だった。

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