第5話 過去

 山下さんは野球帽を取り、それをテーブルに置いた。そしてとつとつと話し始めた。


 「僕は小さい頃から少し変わった子やってん。一人で遊ぶのが好きでな、みんなと遊んだりするのが全くできひんかった。そんな感じやから、人の気持ちを察したりとか、場の空気を読むとか全然できひんかった。最近ではそういう人たちを発達障害っていうらしい。僕が小さかった頃は発達障害っていう言葉もなくて、そういう子たちはただの変わった子、っていう感じで見られてた。まあそれは今の時代でも言えるかもしれへんけど。だから、僕は小さい頃からよくいじめられた。子供っていうのは、まあ大人もそうかも知れへんけど、異質なものを排除しようとするから。僕は異質やってん。でもなぜか勉強はよくできた。だから大学へは行けてん。大阪大学に入れた。まあまあ賢かってん。えへへ」


 山下さんはそこまで話したところで、将棋盤に駒を並べた。僕も一緒に並べた。そして先行後攻を決めるじゃんけんをした。僕が先行になった。


 「大学までは勉強ができたからなんとかなったけど社会に出てからは全くうまいこといけへんかった。僕はコミュニケーションが下手で鈍臭いところがあるから全く仕事ができひんかった。そのストレスで統合失調症になってしまったんや」


 山下さんは統合失調症だった。話を聞く限りでは発達障害もあるのだろう。見た目は普通だが、深刻な病気を抱えているのだ。


 「昔は精神疾患に対して偏見がめちゃくちゃあった。今とは比べもんにならへん。精神科に通院してるなんて周りにいわれへんかった。その偏見は身内にもあった。お母さんは僕を見捨ててん。お母さんは僕が統合失調症になったのを受け入れられへんかった。だから僕をここの閉鎖病棟に入れた。お母さんとはそれっきりで、お母さんは3年前に死んでもうた。老衰やったらしいわ。妹が閉鎖病棟に来てくれて知らせてくれた。妹が来てくれたとき、うれしかった。涙がでた。妹も、お兄ちゃんって言って泣いてた」


 山下さんは窓の外の中庭を見ながら、遠くを見るように目を細めていた。山下さんの表情からは、お母さんや妹さんに対する、恨みや憎しみは感じられなかった。


 「僕は現実が怖いねん。人間も怖い。閉鎖病棟の人はみんな優しくて好きやけど、娑婆の人はみんな怖い。僕は娑婆に出るのが怖い」


 山下さんの話はそこで終わった。


 その後将棋をした。勝負は僕が勝った。山下さんは話し疲れていた。将棋をしているときはお互い話さず黙ったままだった。


 もしかしたら山下さんは、一番信頼できる家族である、お母さんに見捨てられたから、現実や人間のことを信頼できなくて怖く感じているのではないかと思った。


 もし仮に僕がお母さんに見捨てられ、閉鎖病棟にずっといなくてはいけなくなったら…、そんなこと怖くて考えられないなと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

野球帽 久石あまね @amane11

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ