曙山脈の樫の森のサルヴァンに送る手記(中)
新暦千五百三十二年、柳の月の十二日
〈五公国〉の王都ケンペールを過ぎたわれらは、聖王の直轄領を出て、大陸の西の端スライゴー大公領へ入った。ここは領土の大半を〈
われを乗せたレイヴンは、
*
「羊がいますよ、ボルト。でも、この辺りに人は住んでいないんですよね?」
「羊ではない。よく観ろ」
「岩の中に魚がいますね。貝もいる」
「さよう」
彫刻ではなく、魚や巻き貝やフナムシが、生きているときの姿かたちそのままに岩の表面にあらわれている。レイヴンの発見に、ボルトはしたり顔でうなずいた。
「いかなる魔法か、太古の海の生物が岩に閉じ込められておる。それだけではない。われらの立つ地面の下には無数の洞窟があり、時に口をあけて上にいるものを呑んでしまう。ゆえに〈隠し野〉と呼ぶ」
レイヴンは大きく目を
「美しい草原じゃが、うっかり足を踏みいれるなよ。呑まれたものは二度と戻ってこないのじゃ。洞窟へは別の道をとおっていかねばならぬ」
そう言うと、ボルトは先に立って歩きだした。
ボルトは歩きながら説明した。
「いにしえの〈
「誰もみつけていないんですか?」
「
レイヴンは数秒目を上に向けて考え、確かにそうだとうなずいた。
ボルトはよっこいしょ、と道をふさぐ倒木をのりこえ、さらに森の奥をめざした。
「われとて言い伝えられた事柄を
去りし人々の宝は、地中深く蔵されたり。
〈大地の騎士〉と〈月光の子〉ら、これを守護す。
地母神の御力のもと、いずれ来たる子らのため。
ドラゴンが
騎士の胸にねむる。
ときいたればかれは目覚め、剣を
王がために戦うであろう。
王とは〈五公国〉の聖王ではなく、われらの王。虐げられし自由の民を統べる王のことじゃ」
「ドラゴンがいるのですか? この地に。〈月光の子〉とは?」
「いずれわかる。夏至の前の満月の夜に、入口が現れるという話じゃ」
「この、中じゃ」
ボルトは身振りでレイヴンを促した。
「まだまだ先は長いぞ。急ごう。満月が〈隠し野〉の真上に来るまえに着かねばならぬ」
◇◆◇
新暦千五百三十二年、柳の月の十四日
洞窟は、入口の穴の高さは五ヤール(約四・五メートル)、幅は三ヤール(約二・七メートル)ほどあった。入ってすぐ大きな空洞に通じ、天井の高いホールのようになっておった。その中心をつらぬいて、奥から水が流れだしている。
われは平気だが、レイヴンは暗いと困ると言って騒いだ。
*
ボルトは小さな
レイヴンはぶるりと身を震わせ、踵を返した。ボルトは彼の
「こら。きさま、どこへ行く?」
「わたしは地下に向きません。外でお待ちしますよ」
「たわけたことを
「こんな場所で、あなたを乗せて飛べないですよ」
「誰が飛べと言った。きさまには二本の立派な脚が生えているじゃろう。われを肩に乗せて歩け」
「ええ〜。メンドクサイ……」
「それ以上文句を言うなら、きさまの口を縫ってしゃべれぬようにするぞ」
レイヴンはしぶしぶ老コリガンを肩に乗せ、角燈を手に歩いた。かえりみれば、黒い壁にそこだけ切り取られたかのような入口に、緑の木立が見えている。しかし、前方はまったき闇だ。
足元を照らすか細い明かりだけを頼りに、レイヴンはしばらく進んだが、我慢できなくなって立ち止まった。
「どこまで行けばいいんですか? ボルト。やっぱり戻りましょうよ。危険です」
「やれやれ。地上の生き物は、これじゃから。仕方がないのう」
ボルトは舌打ちすると、腰帯の間から小さな
まぶしさに瞬きをくりかえすレイヴンの肩で、ボルトは腕を組んだ。
「しばらくは
「あのう〜……もし」
突然、やわらかな口調で話しかけられて、レイヴンはビクンと背筋を伸ばした。レイヴンは恐る恐る、ボルトは不審げに振り向くと、灰色の肌と白い髪をもつコリガンに似た生き物が、水の流れの中から上半身をだして二人を見上げていた。
――否、「見上げて」と言うのは
ボルトは咳払いをしてレイヴンの肩から降りると、帽子を脱いで丁寧に挨拶した。
「これは初めまして。お騒がせて申し訳ない。ひょっとしてこの火が邪魔でしたかな? 暗闇になれぬ者ゆえ、ご容赦くだされ」
「くらやみ? ひ? それはなんですか?」
それは、にい、と笑う形に口をひらき、無邪気に訊きかえした。
「あなた、土のにおいがする。獣のにおい、鳥のにおい、する。他にもわたしの知らないにおい、たくさんする。ひとり? さんにん? 外から来たの?」
レイヴンとボルトは顔を見合わせた。二人が返事を考えている間に、それは水からペタペタと這い出て、
性別不明のかれは、喉の奥で「くぷくぷ」音を立てると、やわらかな口調のまま続けた。
「外から来る、めずらしいです。〈チイチイ虫〉と違う、もっとめずらしいです。お話しするですか?」
レイヴンとボルトは再び顔を見合わせた。ボルトが応える。
「ああ。ええと、話しましょう。われはコリガンのボルト。こやつは人間で、レイヴンと申します。あなたは、何ですか? 何と呼べばよろしいか?」
「こりがんのぼると、にんげんのれいゔん。たくさん、においがする。わたしは水のにおいする、〈チイチイ虫〉と違う。わたし、〈
「アフロタ?」
レイヴンは聞き慣れない言葉に眉をひそめた。ボルトは辛抱強く続けた。
「〈遊ぶ魚〉。誰があなたをそう呼んだのですか? あなたはわれらと同じ言葉を話しています。誰に習ったのですか?」
「〈遊ぶ魚〉、〈チイチイ虫〉と違う。〈チイチイ虫〉は獣のにおいする、水に入らない。ぱたぱた、空を飛ぶ。外へ出て、また来る。ときどき落ちる。〈チイチイ虫〉は呼ばない」
「……〈チイチイ虫〉とは、蝙蝠のことでしょうか」
レイヴンはボルトの耳に囁いた。洞窟の中で暮らす〈遊ぶ魚〉の世界を想像すると、他に該当する生物はいないように思われる。ボルトは重々しくうなずいた。
◇◆◇
〈
〈遊ぶ魚〉に目がないのは、一生を暗い洞窟内で過ごすため、ものを見る必要がないからだ。知能は言語をあやつれるほどに高いが、衣服は着ていない(洞窟内は年中気温が一定に保たれているゆえ、これも必要がない)。鰓をもち、水中でも空気中でも息ができる。嗅覚と聴覚と肌の感覚が発達していて、われらと遜色なく周囲を知覚できる(われらより鋭いだろう)。地下には昼夜の区別がないため、日付や時間の概念はない。明かりは漠然と分かるので、昼に洞窟の入り口が明るくなったり、夜に月光がさしこんだりすれば、興味半分「見に行く」ことがあるらしい。
それを聞いたレイヴンが、低い声でつぶやいた。
「もしかして。〈月光の子〉とは〈遊ぶ魚〉のことでしょうか?」
〜(下)へ〜
(注①)鳥目:夜盲症のこと。鳥類の多くは夜間に目が見えないと考えられていたことから、できた言葉。
実際には、真に夜間 視力が低下する鳥は数種だけです(ニワトリなど)。カラスは視力が高く、フクロウ並みに夜も見えると言われますが、洞窟のように全く光源がないところでも見えるかどうかは、分かりません。
(注②)石筍:鍾乳洞の天井から滴下する水滴中の物質(主に炭酸カルシウム)が沈澱し、洞床で上方に積み重なってタケノコ(筍)状に固まったもの。その上で天井から垂れ下がる形のものを、鍾乳石と呼びます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます