六章 秋深く 第二話
飛行訓練が始まって二週間ばかりが過ぎた頃だった。その日は朝から雨が降っていた。弱い雨だが、止む気配はない。ケヤクが今日の訓練は休みだな――などと考えていた時、扉が開く音がした。外套をまとったシャミルだった。
「どうした? 今日はどうせ休みだろう?」
「うん、カナの顔でも見に行かないかと思ってさ」
カナはジナンの妹である。幼い頃はよく遊んだが、カナが病にかかってからは、めっきり顔を合わせる機会が減った。ちょうどケヤク達兄弟団の活動が始まったからでもある。
「そうだな。たまには様子を見に行くか」
ジナンの家は村の南端にある。祖母とジナン、そして、妹のカナの三人で暮らしている。ジナンはケヤクより二つ年上で、ケヤクとジナン、シャミル、カナ、それにサーシェの五人は幼い頃、よく遊んだ。妹のカナが魔素の病にかかったのは一年ほど前の事である。この病は伝染する事はないが、魔素への耐性は遺伝的なものだとされている。親が罹るなら、子もまた罹りやすい。
セティヌの屋敷で読んだ書物によれば、魔素は空気中に含まれる気体であるという。ほとんど無色だが、濃度が高いと赤紫色のもやのように見える。普通は少しばかり魔素が身体に入ったところで何という事はないが、濃くなると途端に毒性が増す。
あまりに濃い魔素は、吸った瞬間、肺胞が焼け落ちて死んでしまうが、そこまで濃い魔素は見れば分かる。問題は目では気づけぬ程度の魔素である。知らず知らずのうちに体内に蓄積し、いずれ身体に異常をきたす。それが魔素の病である。患うのは主に肺。咳と血痰を繰り返し、やがて肺が腐ってゆく。数か月から数年で死ぬとされており、高齢であるほど進行が早い。
中には稀ではあるが、魔素に強い耐性を持つ者もいる。多少の魔素を身体に取り入れても平気な人間――そういった者は魔素を混ぜた顔料で刺青を彫れば、それを媒介にして魔法を使う事ができる。例えば、シャミルがそうである。
しかし、それも度が過ぎれば、身体に異変が現れる。肌や骨格が変化していき、あまりに強い魔素を浴びた者は、人ではない異形となる。それが亜人の祖であるという。
身体が変容し、人心を失う。獣と人の相の子のようになり、人を襲う。竜が守る国々の外には、亜人達が暮らす土地もあるが、そういった土地は魔素が濃く、普通の人間には近寄る事ができないとされる。
魔素は獣を、人を変容させ、また、病ませる。生物ばかりではない。田畑も魔素の影響を受ける。魔素に汚染された作物を食べれば、その毒は人体に蓄積する。人が竜を求めるのは、この魔素から逃れるためである。
竜は魔素を祓うという。国内から病が減り、作物も増える。魔素に侵された病人から魔素を抜く事もできると聞く。竜のいる国では死ぬ者少なく、栄え、竜を欠く国では人が減り、衰える。かつての大帝国が分裂した後、この大陸には二十もの国があったという。しかし、竜を失った国は滅び、結果、残ったのは現在の八国である。
八国はそれぞれに竜卵を宝重とし、竜によって国土を維持しているが、灼竜国のように一時的に守護竜を欠く国もある。竜は長寿であるとはいえ、不死ではない。主を失えば死ぬ。竜はその腹に次竜の卵を隠すと言われており、その卵さえあれば、大抵は数年で次の竜が生まれる。
しかし、灼竜国は前竜を失って既に十七年が経つ。この十七年で、人は減り、田畑は枯れ、国は荒れた。竜を欠いた国はどこも荒れるが、十七年も竜がいなければ、その間に人口も富も減る。年々、貧しくなる国で、自らの贅沢は失うまいと領主たちは血眼になって税を取り立てる。既に十分な作物が取れぬ国で無理に税を取ろうとすれば、当然に立ちゆかぬ者達が出てくる。飢えて死ぬ者、病で死ぬ者、奪うために殺す者。罪人を裁くのは役人だが、その罪の軽重も賄賂によって決まる。
生まれた時から竜のいない国で育ったケヤクにとって、もはやこの荒廃は既に見慣れた景色であった。この村は領主がセティヌである分ましな方で、よその村や町へ行けば、飢え死んだ骸や、税を納められずに吊られた死体を目にする事もある。貴族達は税を搾り取れるだけ搾り取るくせに、法を整える事も立ち行かぬ者を救う事もしない。大人たちは竜さえ生まれればと言うが、竜が生まれたからと言って、人の本質が変わるわけではない。竜が生まれても病や不作が減るだけであって、強い者が肥え、弱い者が死ぬ事に変わりはない。結局、竜の在不在ではない、人が人であるから間違った世になるのだ、とケヤクは思っていた。
微かに月香の香りがして、気づけば既にジナンの家の近くだった。扉を叩くとジナンが顔を出した。
「よう、どうした? 訓練は休みだろ?」
「カナの様子を見に来たんだ」
とシャミルが言うと、
「おお、ありがとな。まあ、入れよ」
とジナンは二人を招き入れた。
「カナ、ケヤクとシャミルが見舞いに来てくれたぞ」
ジナンは奥に声をかけ、茶を淹れてくると言って、炊事場の方に姿を消した。家の中は月香の煙が漂っており、カナは奥の小さな部屋の寝台で寝ていた。
「久しぶり」
カナは寝台の上でその痩せた顔を輝かせた。
「元気そうだな」
ケヤクは少し無理をして言った。元々、兄に似ず小柄なカナは前よりも痩せていた。
「うん、時々、胸が痛むくらいであとは平気。畑の手伝いができないのが残念だけど」
「無理しちゃダメだぜ? 伯爵は話が分かるし、カナは身体が良くなるまで寝てて大丈夫なんだからさ!」
くす、とカナが寂しそうに笑った。
「魔素の病だもん。良くはならないよ」
「そんな事ないって! 魔素の病は竜がいれば治してくれるんだ。もう前の竜が死んで十七年だし、そろそろ次の竜が生まれてくるさ!」
シャミルが力強く言う。
「ふふ、ありがとう」
そんなシャミルを見て、カナは嬉しそうに笑って言った。
「兄さんもね、いつもそうやって言ってくれるの。昔はあんなに私の事いじめてたのにねぇ」
カナの笑いにつられるようにケヤクも笑った。
「確かに――ジナンは優しくなったかもな」
「おいおい……俺は昔から優しかっただろ?」
湯呑を盆に載せたジナンが心外だ、という顔で入ってきた。
「いや、昔のお前はもっと乱暴だった」
「そうかあ?」
「お前とケヤクはほんとによくケンカしてたしなぁ」
シャミルが冷やかす。
「いつだったかなあ? お姉ちゃんを二人が取りあってケンカしたことあったじゃない? 自分がお姉ちゃんをお嫁さんにするんだって言って。昔のケヤクは体が小さかったのに、その時は全然引かなくて――結局、後で二人ともお姉ちゃんに怒られたの」
「あったか? そんなこと」
ジナンがケヤクにとぼけた顔を向けると、
「あったあった! お前らサーシェにこっぴどく叱られて二人で拗ねてたじゃねえか」
シャミルが横から手を叩かんばかりに笑って言った。カナも一緒に笑っていたが、ふと真面目な顔をしてケヤクを見た。
「もう……六年になるね」
あれから――そう、もう六年にもなる。その意味は分かった。
「……お姉ちゃん、生きてるかな?」
ケヤクが答えに窮すると、先にシャミルが口を開いた。
「生きてるよ!」
シャミルはカナを見て言った。
「あいつが来た時の事、覚えてるか? あいつは、いい服を着せてやるって言ってた。殺すつもりならそんな事言わないだろ?」
カナは何とも言えない表情でシャミルを見た。
「うん、そうだよね……」
ジナンが口を開いた。
「俺も……生きてると思う。あいつはサーシェを探してるふうだった。なんで探してたのかは分からないけど……。誰でもよかったわけじゃない。」
二人に言われて、カナは俯いた。
「ケヤクもそう思う……?」
心中の動揺を悟られまいと、ケヤクは咄嗟に言った。
「生きてるさ」
ケヤクはさらに続けた。
「そう思うから、馬に乗ったり鷲に乗ったりしてるんだ、俺たちは」
冗談めかして言ったつもりだったが、何も面白くない事に言ってから気がついた。
でも、カナは「そうだよね」と言って笑った。
「早くまた会いたいね」
カナはそう言ってまた笑う。
「そうだ。次に襲う奴はサーシェを攫ったホスロと繋がってるかもしれないんだ。何か手掛かりが掴めるかも」
思い出したように言ったジナンの言葉にシャミルも頷く。
「でも、メイルローブって大きな街なんでしょ?」
カナは心配げに聞いた。
「大丈夫さ。次の襲撃は城を落とすようなものじゃない。鷲で奇襲してすぐに離脱する。心配ならジナンは置いていってもいいぞ。どうせこいつは飛ぶのが下手だからな」
ケヤクは茶化して言ったが、カナはこれには笑わなかった。
「私はケヤクもシャミルも心配なの。みんなのおかげでこの辺りの村が楽なのも知ってるけど……お仕事の日はみんなが帰ってくるまで心配で寝られないわ」
真剣な顔で言うカナに、ケヤクは言葉を詰まらせたが、ジナンは違った。ジナンは妹の手を握って言った。
「約束する。無茶はしない。ケヤクもシャミルも俺も、みんな生きたまま帰ってくる。だから、そう心配するな」
カナはまだ不安そうな顔をしていたが、それでもジナンの目を見てこくり、と頷いて見せた。
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