三章 ラジテ村 第五話
「「少々、自由にさせすぎでは?」
「ケヤクか?」
「はい」
ケヤクを追い出したサナハンはカップを片付けながら言った。細身の長身と物静かな佇まいは、彼の几帳面な内面をよく表している。
「仮にもケヤクは旦那様に大恩ある身。旦那様に怒鳴るなど――」
その言い方に、セティヌはくつくつと笑った。
「あれはただ苛立っているだけだ。――酒を」
サナハンはわざとらしく溜息をつきながら、棚から酒瓶を取り出して主のグラスに注いだ。
「お前も飲むか?」
「いえ、私は」
「相変わらず下戸か」
セティヌはグラスを傾け、酒を含んだ。
「あれはあのままで良い。あれは義憤だ。貴族や、国や……世そのものに怒っている」
「あの小僧がそれを理解しているとは思えませんが」
セティヌは愉快気に笑った。
「理解などしておらぬ。ただ怒っているだけだ。何かがおかしいと」
「それを旦那様にぶつけるのは話が違いましょう」
「良いのだ。何かが違うと感じながら、怒れぬ者に資格などない」
家臣は得心いかぬという顔をしながらも、空になった主のグラスに再び酒を注いだ。この時代、貴族が嗜む酒といえば葡萄酒である。特に寒冷地にある灼竜国では良い葡萄酒が作られる。しかし、年老いた主はもっぱら火酒を好んだ。特に薬草を強く焦がしたような独特な香りの火酒を嬉しそうに飲む。
「サナハンよ、農奴はなぜ農奴になると思う?」
「そう生まれついたからでしょう。親が農奴なら子も領主の所有物です」
「違うな。嫌ならば逃げれば良いのだ。自由民の都市に逃げ込んで一年を暮らせば、それで自由の身だ。少なくとも法ではそうなっておる。しかし、殆どの農奴はそうはせぬ。生まれた土地で領主に仕え続ける道を選ぶ。鞭で打たれ、家族を殴られても何も言わず頭を垂れ続ける」
セティヌは瑠璃のグラスに残った火酒の澄んだ茶色を透かしながら続けた。
「領主が恐ろしい。だから怒らぬ。知らぬ生き方が恐ろしい。だから逃げぬ。戦わず、されど逃げもせず、たとえ犬畜生のように扱われたとしても、頭を垂れて僅かな餌をもらう。あれらは自ら家畜として生きる道を選んでおるのだ」
「あの小僧はそうではない、と?」
「違うか?」
「確かにあれはそういった者どもとは違いますが……」
「農奴は勝手に恐怖し、自ら農奴に落ちる。貴族はその恐怖を利用して支配する。その貴族達を支配する王がいなければ、ますます専横は進む。しかし、あれは自ら家畜になるような愚か者とは違う。怒る事を知っているからだ。およそ人というものは強い怒りがなくては他人を殺める事などできはせぬ」
「人を捨て、獣になればできましょう」
「戦場でのようにか? 殺すだけならそれでもいい。しかし、人を率いる者が人を捨てる事は許されぬ。人のまま人を殺すというのは、存外に難しいものだ」
それはサナハンにも分かるような気がした。まだ少年の時分、初めて主に附いて戦場に赴いた日、主に襲いかかろうとする敵を目の前にしても剣を振るう事が出来なかった。人を捨てずして、人を殺すのは難しい。それが普通というものだ。人の心を捨てきれず死ぬ者も、心を病む者もいる。かと思えば、獣になったまま戻ってこれぬ者もいた。
「……旦那様はあれに何をさせるおつもりなのですか?」
「分からぬか?」
「なんとなくしか……」
主はにまと笑って、サナハンを見た。
「それで良い。主の思いを全て知ろうなどとは臣下の思い上がりというものだ」
「私にはあれが選ばれるとは思いませんが……」
「しかし、可能性はある」
セティヌは杯をことり、と置いて、いつしか消えていた月香に再び火を点けた。
「あれを初めて見た時、これはと思った。武の才と人を惹きつける容姿を持ち、内には怒りと潔癖さを併せ持つ。欠けているのは生まれだけだが、生まれを気にする卵はない」
サナハンは主の言う事を今一つ信じられなかった。それが顔に出ていたのか、セティヌはサナハンを見て笑った。
「信じられずともよい。お前にも自分の頭で考えるだけの知恵がある証拠だ」
セティヌは笑いながら、残っていた火酒を飲み干した。
「どの道、簒奪者には罰を下さねばならぬ。小僧共をうまく仕込め。それがお前の仕事だ」
主がそう言って部屋を出るのをサナハンは頭を下げて見送った。
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