二章 ターバリス・レイ・シュロ― 第三話

 先刻まで腹が減っていたはずなのに、もう食欲を感じない。天幕に戻ったターバリスは手甲を外し、天幕の隅に投げ捨てた。


「ふん……下郎が」

暴言が口をついたが、外に漏れぬよう、声を抑えるだけの自制心はあった。


 サシアン・ホスロは、氷竜国と国境を接するここ、チハヌ州の現辺境伯である。辺境、つまり王都から離れた国境付近の州を統治する州伯の事を辺境伯と呼ぶ。位は伯であるが、その権は往々にして、侯などよりも大きい。辺境伯は普通の州伯や州候とは違い、辺境州の統治に加え、王の代理として国境線の防衛もその任とされる。そのため、独立した州軍の保持と、それをまかなうための徴税権を王より許されている。王の信任を得て、王の代わりに遠方を統治する存在が辺境伯なのである。


 しかし、本来、ホスロ家は辺境伯の家柄ではなかった。元は僻地を治める一介の男爵家。貴族とはいえ、辺境伯に叙されるような家格ではない。ホスロが辺境伯に叙任されたのは、六年前の事であった。


この州の辺境伯は元々、シュロー本家の役目であった。帝国時代の後、この国が建国してから数百年もの間、シュロー家が辺境伯としてこのチハヌ州を治めてきた。しかし、六年前、この氷竜国との戦が始まった年、当時の辺境伯であり、ターバリスの師でもあったナフシス・シュローが戦死した。その年、前王崩御を受け、新王が即位したのを機に当主サバスト・シュローが辺境伯位をサシアン・ホスロに譲ったのである。


 もちろん、それが簡単に行われたわけではない。辺境伯の交代ともなれば、王さえ許せばそれで良いという問題ではない。サバストがホスロに辺境伯を譲ると宣した時、シュロ―家は紛糾した。いや、シュロ―家のみならず、州内の貴族達からもサバストへの不満が上がった。ホスロ家は大半の貴族達から見て“格下”の家系であり、その歴史からも汚らわしく思われていたのだ。


家格のみならず、サシアン・ホスロ自身も剣名と同じくらい悪名の高い男であった。数々の戦で武功を立てた実績はあったが、前王は彼に報奨は与えても、地位も勲章も与えなかった。それは彼の得意とする戦法によるものだと言われていたし、本人の悪癖にあるとも言われていた。その癖は辺境伯になってからも抜ける事はなく、未だ悪趣味な噂は後を絶たない。


当時、ターバリスはまだ十三歳であったが、彼も当主の決断にはひどく落胆した。何も自分が辺境伯になりたかったわけではない。ターバリスは分家の、しかも、養子であったし、自分が辺境伯を継ぎたいなどとは考えていなかった。しかし、数百年もシュロ―家がこの州を、ひいてはこの国を守ってきたのである。わが師であったナフシスが戦死したとしても、この州の守護者は今後もシュロ―家であるべきだと思っていたし、それがシュローの義務であるとすら考えていた。まかり間違ってもホスロのような下劣で、低位の貴族がその任にあたるなど、あってはならない。

しかし、結局、サバストは考えを変える事はなかった。それから六年もの歳月が流れ、この不愉快な戦争もいまだ終わらないでいる。


「ターバリス様」


天幕の外で彼を呼ぶ声が、彼の思考を遮った。


「……レジラスか。入れ」


 天幕の小さな入り口を、大柄な身体を折り畳むようにして入ってきた男は、ターバリスの足元に膝をついた。


「どうした?」

「ホスロと話されているのをお見かけしましたゆえ」

「サバスト様から帰投せよとの連絡があったそうだ」

「帰投? ですか?」

「ああ。一足先に戻れとホスロ卿に言われたところだ」

「まだ冬までは間がありますが……」

「分かっている!」


ターバリスは苛立ちを隠さなかった。


「ホスロ卿によれば、どうせ今年も戦は終わらんらしい。終わらせるつもりもない、という事だろう」

「サバスト様はなぜ……」


ターバリスは、小声で発せられたその問いには答えなかった。


「なぜ――と言うならば、なぜホスロを辺境伯にしたのかも分からん話だろう」

「それは……」

「お前達が不満を抱いている事くらい、俺だって知っている」


ぎり――と奥歯を噛む音が微かに聞こえ、レジラスは顔を上げた。


「ターバリス様、私どもはシュロ―の旗の元、この国を守ってまいりました。この身は大恩あるシュロ―家のためにこそあり、決してあのような下郎に仕えるためではございません」


他の天幕とは離れた位置にあるとはいえ、声が天幕の外に漏れぬとも限らない。


「この地を守る者はシュロ―でなくてはなりませぬ。ターバリス様は養子とはいえ、紛れもなくシュローの血を引くお方。お言いつけくだされば、いつでも――」

「声を落とせ」


ターバリスは静かに言った。


「お前たちの気持ちは分かる。しかし、サバスト様のお決めになった事だ。お前達が口を出す事ではない」


出過ぎた事を申しました、とレジラスは恥じ入るように頭を下げた。


「とにかく、呼ばれた以上は戻らねばならぬ。お前達も一旦、それぞれの領地に返す。明日発つと他の者達に伝えよ。下がれ」



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