二章 ターバリス・レイ・シュロ― 第一話
「……ターバリス様」
「なんだ?」
おずおずと声を掛けた小姓に青年は不機嫌そうな声で返した。実際のところ、彼の機嫌は悪い。今日も一日、戦場にいたにも関わらず、一向に出撃命令が下らず、ただ見ているだけで終わったのだ。別に戦争とは毎日戦うばかりではない。何も起こらない日もある。しかし、この戦ではあまりにもそんな日が多い。朝に出て行っては、鎧に泥一つつかぬまま夕方になって戻ってくる。
「東に氷竜国の隊が現れたとの事です。数は十騎ほどですが、全て鷲獅子に乗っているようで……」
「十? その数なら手柄が欲しい連中がちょっかい出しに来ただけだろう」
「それが……」
と言いかけた小姓だったが、不機嫌そうな青年に気圧されたのか黙った。
「ふん」
季節は既に秋である。この辺りは冬になれば、すぐ雪が降り停戦となる。帰る前に首の一つくらい取って帰りたいという気持ちは彼でなくとも理解はできる。
敵方の氷竜国は北方で亜人族との戦も抱えているせいで、本来、最高指揮官であるはずの竜候がいない。戦上手で知られる氷竜候がいないのは有り難いが、こちらもこちらで竜を欠き、さらにこちらの指揮官は指揮を執るのに早々に飽きてタチの悪い遊びに興じている。両軍ともにぬるぬるとした空気に包まれ、風紀は緩み、独断専行する騎士が後を絶たない。
――なぜ、こんな無意味な戦を続けるのか
彼――ターバリス・レイ・シュロ―は心の中で一人ごちたが、さすがに口に出すのを思いとどまるだけの分別はあった。
「で? ホスロ卿は我々に行って来いと?」
「いえ、それが……ホスロ様はまた出ておられるようで……」
「なに!」
元々悪かったターバリスの機嫌はさらに悪化した。
「戦時中だぞ! 指揮官が戦場を離れて狩り遊びとは何事か!」
報せに来た小姓は震えて飛び上がった。
「わ……私は報告に参っただけですので……」
小姓はかすれ声でそれだけ言うと、逃げるように天幕を出ていった。
「ちっ! 行くぞ!」
ターバリスは肩先まで伸びた胡桃色の髪に兜を被せ、手勢を引き連れて天幕を出た。鷲留めに繋がれた愛鷲に先刻外したばかりの鞍を乗せ、跨った。
こちらの手勢は十八。皆、長年シュロ―家に仕える騎士達である。それぞれが鷲獅子か鷲馬に乗る。報告によれば、敵は鷲騎士が十。数の上では優っている。既に軍の風紀は乱れ、指揮系統などないも同然なのだ。自らが信用できる部下だけを連れて行った方がいい。
離陸し、東に向かうと間もなく敵の姿が見えた。空中戦になるというのに、わざわざ最後尾に旗を掲げた従者を連れている。紺地に銀の一角獣――
「氷竜国のケネブ・ドアンか!」
ターバリスは先頭の、やけに豪華な鎧を纏った男に向かって声を張り上げた。
「そうだ、若造! お前の旗はどうした!」
「笑わせる! 空に旗を持ってくる阿呆がいるか!」
「なにをっ!」
まだ数十メルテは離れていたが、男が青ざめて怒っているのが分かる。焦茶の鷲獅子に乗ったこの男――ケネブ・ドアンは確か氷竜国南部の旧家だったはずである。空中戦では巨大な旗など邪魔なだけであるが、それでも自分の紋章を見せびらかしたがる者は多い。
「生意気な青二才が! 斬り捨ててくれる!」
この言葉が開戦の合図となった。ドアン隊九騎が槍と盾を構えて、まっすぐに突撃してくる。ドアンを先頭に立て、八騎が上下二列に隊列を組み、一糸の乱れもない。
その見事に整った隊列にターバリスは思わず口笛を吹いた。しかし、数が倍ほども多い相手にただ突撃したところで勝ち目など薄い。勇猛を通り越した愚挙である。陸上兵相手ならいざ知らず、鷲獅子による空中戦が主体となった今では、上下左右に隙を作る単純突撃は既に行われなくなっていた。しかし、それでも古い騎士達の中には、愚直な突撃に頑迷に拘る者もいる。
ドアンの突き出した槍を剣の腹でいなし、すれ違いざまに鷲の翼を斬りつけた。翼を落とすほど深く斬らなくても良い。胴と翼を繋ぐ健さえ切れば良い。
ターバリスの剣先がドアンの鷲の翼にわずかに入った。それはほとんどかすったようにしか見えないほどの軌道だったが、しかし、切り返して二度目の突撃をしようとしたドアンは急に平衡を失った。がくん、とドアンの体が傾いた次の瞬間、ドアンの鷲は浮力を失い、錐もむように落下する。
高さはせいぜい二十メルテ。打ち所が悪くなければ死ぬことはあるまい、と落ちゆくドアンから目を切って周りを見ると、既にドアンの部下たちもあらかた討ち取られ、離れたところに一人、旗を抱えた男が鷲に乗って震えている。と、思いきや、旗を打ち捨てて一目散に逃げ出した。
「追いますか?」
「いや、いい。落とした者達だけ捕えて戻る」
ターバリスはそう言って帰る指示を出した。
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