尾八原ジュージ

シンカイの兄ちゃん

 夕方から冷たい雨がびちょびちょと降り始め、やがて完全に夜の帳が降りる頃、シンカイは俺の家にやってきた。

「どうした」

「コガちゃん、車出してくれない?」

 兄ちゃん死んだから。そう言ってシンカイは、両手に抱えていたものを差し出した。

 クダギツネだった。細長い舌が口の端から飛び出している。もう息は絶えているらしい。首に金の鎖が巻きついている。

「鎖で遊ばせといたら、首に巻きついて死んじゃった」

 シンカイが囁くように言った。

 祖父からもらった出来損ないのクダギツネが、シンカイのいうところの「兄ちゃん」である。クダギツネは持ち主にとり憑いて家を富ませるものだというけれど、兄ちゃんは出来損ないだから何もできない。姿を消すこともできなければ、富を運んでくることもないらしい。

 むろん、本物の兄ではない。一人っ子で兄が欲しかったというシンカイが、そういう名前をつけたのだ。埃で汚れたような毛色の、やけに細長くて尖った顔の生き物は、あまり可愛くはなかった。しかしシンカイにとっては特別な存在のようで、執拗に獣を「兄ちゃん」と呼び、マフラーのように首に巻いて、どこにでも連れ歩いた。

 ぐったりと首を垂れる兄ちゃんの首には、金色の鎖が巻きついていた。懐中時計の鎖だよ、とシンカイが呟いた。

「そうか」

 それ以外発する言葉が見つからなかった。ご愁傷様というのも、気を落とさないでとかいうのもなんだか違うと思った。なぜならシンカイは、静かに微笑んでいたからだ。

 兄ちゃんの死体を抱いていて傘がさせなかったせいだろう、十二月の冷たい雨に打たれてびっしょり濡れた黒髪が、青白い顔に貼り付いている。こんな夜にもやっぱり、シンカイは美しい青年だった。


 兄ちゃんはシンカイより三日早く生まれたという。だから一応兄の条件は満たしているのだと、いつだったかシンカイ自身から聞いたことがある。

 シンカイは幼い頃からどこに行くにも兄ちゃんを伴い、いつのまにか周囲のひとびとは彼らをそういうものだと認識した。たまにシンカイが兄ちゃんを連れていないときなど、「今日は兄ちゃんどうした?」と聞くほどになった。

 兄ちゃんは尖った小さな鼻をひくひくと動かしたり、幼児みたいな声で舌足らずにしゃべった。頭はあまりよくないようで、せいぜいものの名前を連呼するのが関の山のようだった。およそ好感を抱かれるようなものではなかったが、無害だった。周囲もそのように認識していた。

 雲行きが変わったのは、シンカイが十歳を過ぎた頃だ。彼の周りで不審な怪我をするひとが増え始めた。それはシンカイをからかった奴だったり、単に彼のことを好きな女の子だったりしたが、彼らが階段から落ちたり、車にちょっとひっかけられたりという事故が相次いで、皆がシンカイを――というか、兄ちゃんのことを疑い出した。

 いくら出来損ないの兄ちゃんだって、一応クダギツネの端くれである。彼らは家に富を運ぶだけでなく、憎い相手を呪うこともあるという。

 しかし、シンカイは兄ちゃんを連れ歩くのを止めなかった。「兄ちゃんにはそんなことできないよ」といって、あくまで兄ちゃんをかばった。そういうとき、獣は大抵シンカイの首に巻きついて「チガウ、チガウ」と鳴いていた。

 シンカイが十四歳のとき、彼にちょっかいをかけた上級生が大型トラックの巨大な後輪に巻き込まれてめちゃくちゃになった。それで、いよいよ彼の周りから人がいなくなった。その後もシンカイと友達らしい付き合いをしている奴といったら、幼馴染の俺くらいのものだろう。

 その状況を俺が喜んでいないと言ったら、正直嘘になる。


 ワイパーは大忙しだった。拭っても拭っても雨だれはフロントガラスを濡らした。

 助手席のシンカイは兄ちゃんの死体を大事そうに抱きかかえ、首に巻きついた鎖を丁寧に外してやっている。やはり兄ちゃんは死んでいた。妖物も首を絞められれば死ぬらしい。兄ちゃんは力の抜けた長細い体を、シンカイの腕の中でだらりと伸ばしていた。

「埋めるのか? どこへ行けばいい?」

「埠頭」とシンカイは言った。「海に捨てる」

「墓とか作ってやらなくていいのか?」

「いいんだよ」

 シンカイは静かに微笑んでいる。大理石出できた彫像のような顔の上で、赤い唇がほころんでいる。

 俺は慎重に車を発進させた。雨粒が街灯を反射して光る。屋根を叩く雨音が聞こえる。確かあの日も雨が降っていた。


 あの日俺たちはお互いに十五歳――中学三年生だった。

 シンカイは相変わらず、兄ちゃんをマフラーのように首に巻いて登校していた。おそらく校則違反なのだが、皆シンカイたちに関わるのを怖がって何も言わなかった。

 中学校の図書室は換気が悪く、雨の日はじめじめとして、およそ本を保管しておくには適さない場所のように思えた。おまけに読書するには不便なほど暗かったので利用者は少なく、いつ行っても静かだった。

 その日の放課後、どうしてそんな図書室に向かったのか覚えていない。ともかく人気のない図書室の棚の間に、俺はシンカイと兄ちゃんの姿を見た。

 雨粒が窓ガラスを叩いていた。いつもよりなお暗い図書室の隅で、シンカイは兄ちゃんを首から外し、両手で顔の前に持ち上げていた。兄ちゃんは細い舌でシンカイの唇を舐め回し、シンカイは頬を紅潮させてふふっと小さく笑った。なぜかひどく淫らなものを見た気がした。

 そのとき、シンカイが突然こちらを向いた。棚の後ろに隠れていた俺を視界に入れ、コガくん、とシンカイは言った。

「コガクン、コガクン」

 兄ちゃんが鳴いた。

 呪われる、と思った。

 俺は図書室から逃げ出した。しかしその後、意外なことに俺が怖れていたようなことは何も起こらず、シンカイもまた何か言うわけでもなかった。

 俺は急にシンカイと親密になったような気がした。図書室で見たことは誰にも言っていない。


 埠頭にも大粒の雨が降っていた。傘をささずに車を出ると、俺もシンカイも兄ちゃんの死体も、たちまちのうちに濡れ鼠になった。

 シンカイは岸の端っこに立って暗い海を見つめていたが、突然こちらを向いて、

「コガくん、持つ?」

 と言い、微笑みながら俺に向かって、首をだらりと垂らしたクダギツネの死体を掲げてみせた。

「よせって。いいよ」

「ふぅん……」

 シンカイは意味ありげに笑った。「こんなもの祟らないのに」

「そういう意味じゃなくてさ」

「ひとを呪うのにこんな獣なんかいらないんだよ」

 どこか遠くでサイレンが鳴った。

「おれなんだ。呪いの力を持ってるのは」

 シンカイの声が、俺の耳を打った。

 咄嗟に動けなくなった俺の両手に、シンカイが兄ちゃんの死体をぱっと載せた。雨に濡れた獣の死体の手触りが生々しかった。あっ、と思った瞬間、濡れた毛皮がずるっと滑った。俺の手の上から兄ちゃんの死体が落ち、コンクリートの地面にべちゃりと落ちた。

「かわいそ」

 シンカイが呟き、足で兄ちゃんの死体を蹴飛ばした。ぼちゃん、と水音がした。

 俺は信じがたいという気持ちでシンカイを見た。

 雨の中で、シンカイは笑っていた。あの日薄暗い図書室で見たような、蕩けるような笑みを浮かべていた。

「お前が兄ちゃん殺したのか?」

 思わずそう尋ねていた。「お前が兄ちゃんを呪って、死なせたんじゃないのか? どうしてそんな」

「ふふふ、ははははは。ねえコガくん」

 シンカイは質問に答えなかった。代わりに突然俺の手をとって、冷たいものを握らせた。

「これ、コガくんにあげる」

 金鎖だった。さっき兄ちゃんの首から外したものだろう。

 雨に濡れたシンカイが、赤い唇を歪めて笑った。美しいと思った。もう俺は、兄ちゃんのことを哀れに思ってはいなかった。かえって清々しい気持ちすら抱いていた。

 あの獣には、シンカイの兄役は荷が重すぎたのだ。シンカイより三日早く生まれるだけで兄ちゃんになれるなら、三月早く生まれた俺にだってなれるじゃないか。どうして俺じゃ駄目なんだ?

 いつの間にかシンカイは、掌にあった鎖を手にとって、手枷のように俺の手首に巻きつけていた。それから俺の耳元に唇を寄せ、耳を溶かし脳の隙間に絡みつくような声で、

「兄ちゃん」

 と囁いた。

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