二章④ 氷が解ける時
「あの、氷名乃さん」
深夜の二時頃。
私は震えた声で彼女の名を呼んだ。
「何?」
双眼鏡を目に当てたまま、落ち着いた声で尋ねる氷名乃。
頭と腕だけを外に出し、相変わらず大きな毛布に包まっている。
まるで猫のようだ。なんとも可愛らしい。
……いや。そんなことより。
「このゲーム、怖すぎませんか?」
「まあ、ホラゲーだからね」
ホラゲー。
多分、ホラーゲームのことかな。
「氷名乃、いつも平然とやってるよね」
「まあ、慣れてるから」
なるほど。
いつも氷名乃が冷静なのは、ホラーゲームに鍛えられてるからか。
納得。
……さて。なぜ私がゲームに興じているかというと、氷名乃の熱望を叶えるためだ。
幽霊が出る、という噂がある廃墟を探索するゲームなのだが、どうやら二人で遊べるモードがあるようで、それを一緒に遊んでほしい、とのこと。
今は一人用のモードで、基本的な操作の確認中だ。しかし、外から目立たないように消灯していることも相まって、驚かされてばかりだ。操作の確認をする余裕がない。
……というか、ゲーム初心者の私に、いきなりホラーゲームをやらせる氷名乃さん。鬼。
「はいはいもうバレバレですよ。どうせこの扉開けたらいるんでしょ……って、いないんかい。無駄に警戒させおって。まったくもう……ってぎゃああああああああ!」
ちょっ! 振り返ったらいるのやめて! 法律で禁止にしろ!
「楽しそうだね。潜香」
ちなみに、同じ階に他の宿泊客はおらず、大声を出しても構わないとのこと。
ホラーゲームをしたいのですが騒いでも大丈夫ですか、と、恥を忍んでスタッフさんに確認した私を褒めていただきたい。
「意外。仕事中はいつも落ち着いてるし、怖いもの知らずだと勝手に思ってた」
「日常生活では結構ビビりだよ。仕事中はアドレナリンがドバドバしてるのかもね」
「楽しそうに仕事するもんね、潜香。危ない場面も多いのに。変人」
「なんか言った?」
……それにしても。
張り込み中の休憩時間は、仮眠や軽食を取ることがほとんどだ。文字通り、体を休める時間になる。
対してホラーゲーム。体を休めることはできないが、ほどほどの緊張感を保つことができる。
しかも、眠気がまったく来ない。常に目が冴えている状態だ。
そうなれば、緊急事態にも対応しやすい。
なるほど。意外と有意義な過ごし方かも。
「――潜香」
突然の出来事だった。
緑髪の少女は、真剣な面持ちで私の名を呼んだ。
「どうしたの?」
思わず、コントローラーを床に置く。
「――誰か来た」
私はすぐさま、窓際に駆け寄った。
外の様子を窺う。辺り一帯は薄暗く、距離が遠いため、はっきりとは見えないが、確かに誰かが歩いている。
「昨日、この時間に歩いている人、いたっけ?」
「いなかったね」
「なら、もしかして――」
「いや。ただの通行人かもしれない。もう少し様子を見よう」
「了解。念のため私は準備しておくよ」
氷名乃から双眼鏡を受け取り、監視を続ける。
着用しているのは……ジャージだろうか。
フードを被っており、背を向けているため、顔を覗くことはできない。
歩き方は、男性のそれに見える。
そろそろ被害者の家だ。敷地内に入ればクロだが――。
「……どう? 捕まえに行く?」
痺れを切らしたのだろうか。黙って監視を続ける私に、氷名乃が声を掛けてきた。
「いや。どうやら杞憂だったみたいだよ」
その人物は、ただ通り過ぎるだけだった。
「なんだ。それじゃあ監視続行だね」
コートを脱ぎながら、残念そうに言葉をこぼす氷名乃。
彼女には、既に四時間ほど監視をしてもらっているが、疲労の色は見えない。とても頼もしい。
が――。
「……ちょっと待って」
双眼鏡を譲り受けようと手を伸ばした氷名乃。私は、彼女に待ったを掛けた。
「――もう一人来た」
先ほどの人物とすれ違う、もう一人の男。
髪はボサボサだが、髭はあまり伸びていない。昼間に氷名乃が目撃した人物ではないようだ。
二十代だろうか。髪さえ整えば好青年に見えそうだ。
「氷名乃」
「ん?」
不思議そうな顔で、こちらに視線を向ける少女。
私は彼女に、自信を持って宣言した。
「――どうやら、目的の人物みたいだよ」
周囲をキョロキョロと見回す男。先ほどの通行人は、既にその場から離れている。
そして――。
「よし行こうか。頼んだよ氷名乃」
モバイルバッテリーが見つかった、女性の家。その敷地内に侵入する人物が現れた際には、氷名乃が先行して捕える計画だ。私の足では逃げられてしまうだろうけど、彼女の足なら追いつける。
しかし、彼女が取った行動は――。
エージェントは、今日もよくしゃべる 蛇仕草 @hebishigusa
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