第三章 4-4


「お願いします、ラーマを殺さないでください!」


 彼女は水属性魔法の氷姿雪魄パーマ・フロストを消去し、また自身に短剣を向けた少年からプラナを収奪して昏倒させた。


 二つの空属性の力を同時に行使した反動は、彼女の心身にも重度の疲労感をもたらしたが、それを悟られないように残った少女を威圧する。


 少女は目前の光景が信じられないのか茫然自失としていたが、やがてふらついた足取りで倒れた少年へと駆け寄ると、地べたにつくばって懇願してきた。


 ここに彼女たちの決着は付いた。上位魔法を行使したことにより、少女に残るプラナはもう幾許いくばくもないのだろう。加えて相棒である少年、ラーマが意識を失っているのだから、もはや抵抗する意思は皆無のようだった。


 彼女にしても、元より命まで奪う気は毛頭なかった。りとて、今回の一件については後悔も容赦もするつもりはない。成人を迎えた身として、未熟な二人にはお灸を据えてやりたいと憤慨していた。


 しかし、その可愛らしい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、懸命にすがり付く少女を見ている内に、段々と居た堪れなくなってきた。


 こちらとて二人を空属性の実験台にした……という後ろめたさがない訳ではない。あの時は自分でもどうかしていたと思うくらい、湧き上がる戦意に気持ちが高揚していた。


 彼女は少女の肩に手を置くと、これ以上の争いは無用であることを説き、互いに不備を認めて許し合った。少女は感極まったのか、彼女に力強く抱き着くとそのまま声を上げて泣き出した。


 結局そこに残ったのは、いずれも満身創痍の丸太兎ファッティラビットつがい、ラーマとシータの狩人のつがい、そして独りだけの自分だった。何だか少しだけ妬ましく、そしてミストリアが恋しくなった。


 自然の摂理に抗うように、獲物と狩人、そして保護者が寄り添い合う。自然は時に厳しく、時に優しい。今だけはこんな時間が流れても良いのだろう。


 そう、自然は時に優しく、時に厳しい。人が自然の恩恵を受けて生きるように、逆にまた恩恵の側に回ることもある。そして、それが今でないという保証はどこにもないのだ。


 再び、茂みから葉が擦れる音が、いや枝を、幹さえも薙ぎ倒す地響きがした。二人は目を見合わせると、恐る恐る音のした方へと顔を向ける。


 そこには巨大な影があった。体高はゆうに彼女の倍はあり、全てを塗り潰すような墨色の体毛に覆われている。


 丸太のような腕の先には、触れるものを等しく肉塊へと変貌させる鋭利な鉤爪が、そして対峙した者を諦念させる無慈悲な凶相には、幾多の死を纏わせる妖刀の如き歯牙が鈍い光を放っていた。


 それはこの森の食物連鎖の頂点、獲物を求める狩人さえも喰らうという禁忌の魔物、狂躁熊クルーエルベアであった。


 何のことはない、今度は自分たちが狩られる番となったのだ。街道から外れた森の奥で、三人と二匹が身動きを取れずにいる。これはまさに自然の恩恵そのものだろう。狂躁熊はまるで天に感謝するかのように、大気を震わせるほどの咆哮を上げていた。


 その光景を直視し、恐慌状態に陥ってしまったのか、少女は奥歯を鳴らしながら一層彼女にしがみ付いてきた。


 心做こころなしか、栗皮色くりかわいろ外衣ローブから溢れた脚の先には、水溜りのようなものが広がっているのだが、可哀想なので視えない振りをする。


 もしも少女に氷姿雪魄パーマ・フロストが放てたら、この場を切り抜けることが出来たかも知れない。或いは少年が無事であったら、連携して抵抗することも可能だったのかも知れない。しかし、それを不可能にしたのは他ならぬ少女たち自身なのだ。


 弱肉強食、これもまた自然の摂理である。狩ったら狩られる、攻撃したら反撃される。キノ領の村の家畜を襲った恐狼テラーウルフも、帝都で天人てんじん地姫ちぎを謀殺しようとしたトウタクたちも、これまでの旅で幾度となく観てきた光景ではないか。


 そして今、狂躁熊が自分たちを喰い殺そうとしている。二つのつがいと一つの単がその餌食となる。喰ったら喰われる、殺したら殺される……ならば、


 気が付くと、彼女はわらっていた。全く、いつから自分はこんなにも好戦的になったのだろう。力無きものが力を得たことによる反動か、それとも空属性の副次的効果なのか。


 そう、これはまたしても絶好の機会なのだ。プラナの収奪が行き着く果て、限界を超えて奪い続けたその先には、恐らく死が待っている。


 毛塊けだまたちには出来なかった。少年にはもっと出来なかった。でも、お前になら出来る。よもや、それを嫌だとは言うまいな。


 そしてもう一つ、彼女には空属性を会得してから感付いたことがあった。自分とミストリアの間には、微力ながらも魔力の繋がりが存在するのだ。それはきっと、自分を見守るためのものなのだろう。


 だから、ミストリアは知っているのだ。知っていて、自分で何とかしろと言っているのだ。それは本当なら怒りたいことのはずなのに、今は何故だか、そっと背中を押されたような気がした。


「ねえミスティ、最近私に厳し過ぎるんじゃない?」


 彼女は姿を見せない、しかしどこかで観ているであろう親友に向けて声を漏らす。それが聴こえたのかどうかは定かではないが、狂躁熊が爪牙そうがあらわにして彼女たちに迫ってくる。


 思えば今日は朝から散々だった。二体の毛塊に、ラーマとシータ、今度こそ終わりにするとしよう。


 疲労困憊の身体に鞭を入れる。もう一度だけなら、この力を行使できそうだ。プラナを収奪する力……いや、そろそろちゃんとした名前を付けてあげよう。名称の認識は心象を明確化させ、威力や効果、安定性の向上に寄与するのだ。


 その名はもう、決めていた。空属性の第二の力、未知なる大空に向けていま雛鳥が羽ばたくように、彼女は力の限りを込めて叫んだ。


五蘊皆空ダスト・トゥ・ダスト!!」

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