第三章 3-2


「さて……そろそろ出てきても良いわよ、あなたたち」


 一頻ひとしきり説明を終えた後、彼女が落ち着くのを待っていたかのように、唐突にミストリアが手を叩く。それを合図として、前方に茂る森の中から二つの影が姿を見せた。


 丸々と太った体躯に、全身を覆う白茶と灰茶。まるで毛塊けだまが転がるように現れたそれは、昨日二人が対峙した丸太兎ファッティラビットであった。


 思わず身構えてしまう彼女を制し、悠然と近付いていくミストリア。固唾を呑んで見守る彼女を尻目に、すぐ傍まで寄ると両手を伸ばして各々の額を優しく撫でる。


 二体の毛塊、いや魔物はまるで母親に甘える子供が如く、目を細めて嬉しそうな笑顔を――毛に覆われて表情は見えないが――浮かべているようであった。


 彼女は当初、魅了チャーム系統の魔法を行使したのではないかと考えた。不意に、帝都でサナリエルに籠絡されそうになった記憶が蘇り、思わず赤面してしまう。


 この魔法は人のみならず、魔物や動物に対しても効果を及ぼす。しかし、あくまで一時的なものであり、あれから既に半日以上が経過しているため、手懐けているといった方が正しいのかも知れない。


 ミストリアにはシュンプ平野でサンドワームが懐いていたこともあり、伝説と謳われた魔物に比べれば、斯様かような毛塊など赤子の手を捻るようなものだろう。


 なお、世界には生業として魔物を使役する者たちがおり、彼らは魔物遣いと呼ばれている。特に王国の南方に国境を接する土雲つちぐもと呼ばれる小国家群では、幼少期から寝食を共にすることで獰猛な魔物をも飼い慣らす部族がいるという。


 王国民からは野蛮な人種であると蔑まれているが、その戦力は決して侮れないものであり、しばしば王国の南部を脅かしてきた歴史を持つ。


 現在はハジ家の尽力により友好的な関係が築かれており、王国の文化や慣習も取り入れられてきているようだ。


 それにしても、ミストリアはこの毛塊たちをどうするつもりなのだろう。いくら市井しせいでは人気の食材とはいえ、流石さすがにこれだけの量は食べ切れるものではないし、目前の光景を見た後では尚更その気は起きない。


 そんな彼女の視線を察したのだろう。ようやくミストリアは毛塊たちを撫でる手を止めると、こちらに向けて振り返り、心中の疑問に応えてくれた。


「この子たちには、あなたの練習相手になってもらうわ」


 それが何の練習なのか、考えるまでもなかった。昨日失敗した、いや相討ちになったプラナを奪う力を鍛えるためのものだ。


 いささか急な話ではあったが、拙速は巧遅に勝るともいう。明らかな欠陥を抱えた今の状態では、盗賊や魔物などから自分の身を守ることは出来ない。それは即ち、ミストリアとの旅の終わりを意味するのだ。


 りとて、決して彼女も無策ではなかった。先ほどミストリアの口から語られたプラナの真髄、それは彼女にもうひらかせ、天啓たる閃きを与えてくれた。


 今まで彼女は、プラナを対象の内部に存在する物質と認識していた。そして、魔法を消去する技術の応用で、プラナに宿る魔力の対消滅と因子の除去をしているのだと思い込んでいた。


 しかし、プラナが実体なき概念であるならば、その行為もまた別の意味合いを帯びてくる。自分が消していたものは、あくまで魔法と同じくマイナに宿る魔力であったのだ。


 ただし、それが魔法と異なる点は、その魔力の由来が自然界に普遍的に存在し、マイナに取り込まれたものではなく、対象の生命力を因子が吸収し、そして変換したものだということだ。


 つまり、プラナを奪う力とは、対象の周囲に存在するマイナから魔力を消滅させることで、枯渇した因子に生命力の搾取を誘発させ、それを極限にまで反復させるものであったのだ。そこまで理解したならば、これから何をすべきかも自ずと導き出されてくる。


 やがて、ミストリアの手を離れた白茶の毛塊が、落涙らくるいするほどに屈辱と失望を味わわされた魔物が、再び脅威と化して迫っていた。


 その突進の勢いは昨日と寸分違わぬものであり、このままでは同じ結果を繰り返すことになるだろう。たとえ接触の瞬間にプラナを奪取したとしても、直前の動作までは無くすことが出来ないからだ。


 しかし、結論から言えば、今回はそうはならなかった。彼女は気絶していないし、弾き飛ばされてもいない。空は変わらずどこまでも青く広いが、それを溢れる涙とともに見上げることもなかった。


 彼女のずっと前方で、丸太兎は触れることなく、ただの毛塊に戻っていた。

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