第三章 1-1


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「これ、馬車が来たらどうするのかな」


 左右を直立する苔生こけむした岩肌を眺めながら、目元を隠すように下がる蒼銀の髪を払うべく首を振る。


 僅かに開けた天上に恒星の姿は認められず、射光を遮られた谷底は未だ夕暮れには程遠いというのに薄暗い。いつもならば、淡く輝きを放つはずのそれも、今は幾分か黒ずんだものに感じられた。


「あらっ、少し髪が伸びてきたわね」


 不意に隣を歩く人影に声を掛けられる。視線だけをそちらに向けると、漆黒の外衣ローブの首元からは金糸の髪が覗いており、それは夜空に映える月光のごとく、この地にあってもいささかの陰りもせず、自身との違いを否が応にも想起させた。


 普段から男装の気があるかと疑われるほど、彼女の髪は短く切り結ばれており、前髪が目に掛かることはない。しかし、王都を旅立ってから早三月はやみつき、その間に一度も髪を整えることはなく、皮肉にも女人らしさが醸し出されていた。


 実に一月半ぶりの邂逅を経て、旅を再開した二人であったが、少しぎこちなさが見受けられるようである。それはもっぱら彼女の側に顕著であり、しきりにミストリアの表情を眺めては、視線が交わる度に赤面して目を逸らしてしまう有り様であった。


 彼女にはミストリアに対して言いたいことが山ほどあった。それは結果的に置いて行かれたことへのなじりであり、別離の間に過ごした日々への探りであり、そして自身が身に付けたくう属性の存知への勘繰りでもあった。


 しかし、それを敢えて口にはしない。今はただ、共に肩を並べて歩めることが嬉しかった。自分が真に望むべき場所への回帰、その望外ぼうがいの歓びに心を震わせていたのである。


「変なレイニー、顔にちょっと締まりがないわよ」


 仕舞いには、やんわりとたしなめられてしまう。しかし、ミストリアもまたきっと同じように感じていることは、陽光の届かぬ大地さえも輝かせる満面の笑みからも明らかであった。


 シュウシンカン帝国とバラトリプル教国に跨るターパ山脈、その唯一の山間道であり、国境でもあるケンモン関の通路を二人は歩いている。


 それは左右にそびえ立つ大山、ダイケンとショウケンに挟まれた隘路であり、その道幅は馬車一台を通すのがやっとの様相であった。


 また、双大山の谷間ということもあり、道筋は左右に蛇行しながら続いている。必然的に大軍による行軍は難儀であり、先の大戦においても皇国軍の侵攻を防ぐ天然の要害としての役割を果たしていた。


 現在は帝国と教国の共同統治とされており、互いに出入口にあたる部分に関所を設けて国境防衛における要としている。


 特に軍事力に乏しい教国側にとっての重要性は高く、切り立った崖の一部を削り取り、堡塁ほるいや観測所、貯蔵施設などの陣地が構築されており、遠方からでもその重厚感が肌へと伝わってきた。


 大戦終結後は王国を含む三国同盟に基づき、原則的に通行の自由が保証されている。二人は何ら妨げられることもなく、教国側に向けて歩みを進めていた。


 途中、前方からの旅人らしき一団の縦列に遭遇し、互いに道を譲り合って擦れ違う。どうやら馬車の往来は制限されているらしく、越境にあたっては乗り換えが必須なようだ。確かに、この道路事情ではそれもやむを得ないことであった。


 通行人の多くは教国側からであり、後方を振り返っても二人に同道する人影は疎らである。この時期は封禅ほうぜんの儀に合わせ、聖地巡礼に各地から多数の信徒が訪れるはずなのだが、或いは既に入国を果たし終えているのだろうか。


 それは二人にとって、些か不都合な事態であった。天人てんじん地姫ちぎたるミストリアは、この世界における絶対的な強者にして、ヌーナ大陸の安定に寄与する調停者でもある。


 しかし、その捉え方には国によって差異があり、救世の守護者として英雄的に扱われる王国、逆に覇道の障害として敵対的に見做みなされがちな帝国とは違い、教国においては生きた御神体、神に等しき存在として崇め奉るべきものであった。


 本来の信仰対象は天人てんじんなのだが、開祖シャーキヤにより教義が創られた頃には、既に何処いずこへと御隠れになったとされている。


 もっとも、天人は自然現象の象徴であるとして懐疑的に唱える説もあるのだが、聖職者や神学者の間では今なお実在し、地上の人々を見守っているのだと考えられていた。


 それ故に、天人地姫の御幸ごこうは教国にとっては一大行事であり、その関心の多寡は帝国の比ではない。彼女が純白の外衣ローブから頭巾フードを外したのに対し、ミストリアが依然として素顔を隠しているのもそのためであった。


 王国のときと同様に、国境通過にあたっては原則として身分を明らかにすべきとされている。それは必ずしも面通しを強制するものではなく、徽章きしょうや職業組合証の提示などにも代えられており、殆どは形式的なものであった。


 仮にミストリアの正体が明るみになったとして、何らかの咎めを受けるどころか、その威光に平伏すことになるだろう。しかし、先の帝国での一件を顧みれば、無用な混乱は避けるのが賢明であった。


 然様さような思惑もあり、巡礼者に紛れて入国することが理想的であったのだが、今更考えても詮無きことではある。せめて、彼女が素顔を晒すことで門番の注意を引き、詰問された際には率先して答える他ない。


 そして、ようやく二人は関所の出口、教国側の門へとやって来た。胸壁きょうへきを見上げると帝国側にも増して厳重な狭間窓はざままど――もはや要塞の域に達している――が構築されており、教国における最重要拠点であることを如実に物語っている。


 それというのも、この地より先は教都クシナガラまで、要塞や陣地などの目立った防衛線は存在せず、ここを抜かれたら即座に国家存亡の危機に瀕してしまうのだ。


 教国はその成立過程からして、皇国から自治権を認められた宗教都市が母体であり、帝国はおろか王国と比較しても戦力に大きな隔たりがある。むしろ、いたずらに軍備を拡張しないことが同盟の堅持、覇者たる帝国への弐心なき証となっていた。


 その戦力差は兵士の身なりにも顕れており、帝国が辺境警備隊にも鎖帷子チェインメイルを配備しているのに対し、教国は軽装の革鎧レザーアーマーが主体である。


 もっとも建国以来、帝国と教国が交戦状態になったことはなく、また狭所における機動性を重視したのであれば、必ずしも劣っていると断じることは出来ないだろう。


 彼女は胸壁に向けていた視線を落とすと、関門の両脇に立つ守備兵に会釈をした。心做こころなしか、兵士の顔付きも帝国のそれと比べれば柔和なようにも感じられる。


 しかし、やはり連れ合いが被覆ひふくなことはいささか心証が悪いようで、門兵の表情が険しくなったようにも見受けられる。それでも過敏な反応は却って疑念を招いてしまうため、何も気付かないていで側面を通り過ぎた。


 背中に猜疑さいぎの視線を浴びながら、襤褸ぼろを出さないように歩速を一定に保つ。別にやましいことは何もないが、これも陪従者ばいじゅうしゃとしての責務である。


 そして、何事もなく関門をくぐり終え、ほっと安堵の息を吐いた瞬間、不意に後方から声を掛けられた。


「其の方ら、天人地姫の御姿を拝しに参ったのであろう。既に御幸あそばされ、封禅の儀は間近であると聴く。く先を急がれよ」


 思いも寄らぬ言葉に転倒し掛ける彼女であったが、何とか両足に力を込めて踏み留まる。そして、いぶかしげな視線をミストリアに向けるのだが、当人からは涼しい顔で返されてしまった。


 額面どおりに受け取れば、天人地姫はもう入国を果たしていることになる。一方、ここに居るのが当の本人だとは気付かれてないようだ。実に不可解な話であるが、動揺を見せて要らぬ詮議を受けるのは得策ではない。


 彼女は平静を装いながら兵士に返礼すると、御幸の最後の地、霊峰タカチホをいただく信仰の国へと足を踏み入れるのであった。

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