第三章 1-2


「ねえ、さっきのはどういうこと?」


 要塞と見紛みまごうばかりの関所を越え、次第に拡がりを見せる街道で周囲に気を配りながら、彼女は隣を歩くミストリアに疑問をぶつけた。周辺では商人とおぼしき荷馬車が休んでおり、どうやら通行の順番を待っているようである。


 先ほどの兵士の話を鵜呑みにするならば、既に天人てんじん地姫ちぎはこの地を御幸ごこうし、もうすぐ封禅ほうぜんの儀へと臨もうとしているようである。


 一方、当の本人は動揺した素振りをおくびにも見せず、久方ぶりに姿を現した恒星に目を細めていた。


 始めは本当にミストリアが教国を訪れ、儀式の準備を進めていたのではないかといぶかしんだ。再会したのは帝国領であったが、既に教国への入国を果たし、また国境まで戻ってきた可能性もあるからだ。


 しかし、たとえ皇女の密偵の監視を掻い潜り、教国への出入国を繰り返していたとしても、御幸ともなれば隠し通すことは出来ない。


 また、帝国の時のように奉迎の使者を派遣していないことも妙である。教国の国是と教義を鑑みれば、天人地姫の来訪は是が非でも把握しておくべき重大事項であり、国を挙げて尊崇そんすうの念を示そうとするだろう。


 そうなると、国内で何らかの異変が生じているのかも知れない。それはきっと、今時分に越境する巡礼者が少ないこととも無関係ではないはずだ。


たまにあることよ。ここで悩んでいても仕方がないわ」


 眉間に皺を寄せる彼女を一瞥してミストリアが呟いた。どうやら目星が付いているらしく、どこか諦めた様子でもあるのだが、彼女には納得することが出来なかった。


 ミストリアではない誰かが、先に教国を訪れて儀式の準備をしている。そして、己こそが天人地姫であると吹聴しているのだとしたら……。


 あまりにも馬鹿げた推論に、不快極まりない結論に、最初は理解が追い付かずにいた。しかし、先入観を排して考えてみれば、答えは一目瞭然であった。即ち、天人地姫の偽物がこの地にのさばっているということになる。


 よくもまあ、そんな命知らずな真似が出来たものだ。王国であれば不敬罪、帝国となると反逆罪、そして教国に至れば謗法罪ほうぼうざいとなる。それは信仰に生きる教徒にとって何よりも重い罪なのだ。


 彼女は憤りを顕にした。こんな暴挙を許して良いわけがない。すぐにでも関所に取って返し、兵士に談判したいという衝動に駆られたが、呆れた様子のミストリアに諌められてしまう。


「今更騒いでみたところで、逆にこっちが偽物呼ばわりされるのが関の山よ」


 ミストリアの忠告に彼女も冷静さを取り戻す。ここでわめいたところで混乱が広がるだけである。少なくとも、教都に着くまでは正体を隠した方が賢明であろう。


 街道を歩きながらこれからの方策を考える。しかしながら、一つの事柄に拘泥こうでいし、没入してしまう癖が災いしたのか、その足取りは覚束ないものであった。


 しばらくの間、その様子をじっと眺めていたミストリアであったが、唐突に何やら怪しげな笑みを浮かべると、歩速を緩めて彼女の背後に回り込む。そして、脇の下に向けて手を伸ばし、外衣ローブの上からくすぐるように手指を回転させた。


「きゃっ! んもぅっ……!!」


 突然の悪戯に彼女は嬌声きょうせいを発してしまう。しどろもどろになりながらも、必死になってその手を振りほどくと、今の反応が余程おかしかったのか、軽快な笑い声が聞こえてきた。


 彼女は赤面しながら抗議の声を上げる。ミストリアは尚も笑いが止まらないようであったが、目尻に涙を浮かべながら謝罪の言葉を口にした。その屈託のない笑顔に思わず毒気を抜かれてしまう。


 なんだか、昔に戻ったみたいな気がした。それもずっと前、まだ二人とも幼かったときのことだ。あの頃のミストリアは聡明ながらも、歳相応の子供らしい無邪気さを持ち合わせており、時折こうして無意味な悪戯をしたものだった。


 しばらく会っていなかったせいだろうか。少しだけミストリアとの距離に違和感を覚えた。それは決して空間的なものではない。現にこうして、ミストリアを間近に感じることが出来ている。きっと、これは時間的なものなのだ。


 共に過ごした日々は色褪せることもなく、今もなお鮮明に心のうちに残っている。しかし、それはまるで現在との連続性を失い、そうであったという記憶だけが後付けされたような、断絶した過去として認識してしまう自分がいるのだ。


 ……何を馬鹿なことを考えているのだろう。ほんの僅かに離れていただけで、もうミストリアを過去へと追いやってしまうのか。そんな器用な真似が出来るくらいなら、始めから御幸ごこうに陪従することも、くう属性を身に付けることもしていない。


 自分は過去を現在に、そして未来へと繋げるために、どこまでも無数に散らばるが、それ故に、か細い糸を伝ってここまでやって来たのだ。それがもう途切れてしまっていたなんて、そんなことがあるはずはない。


「きゃっ! んもぅっ……」


 思わず、ミストリアを抱き締めていた。この温もりが、この柔らかさが、この心地良さが、ミストリアなのだ。それは昔から何一つ変わっていない。いま此処ここには自分がいて……そして、其処そこにはミストリアがいる。


 腕の中からは少しだけつやのある声が漏れたが、特に抵抗されることもなく、その内に収まっていた。


 この抱擁は国境での再会を祝し、誓いを新たにしたものではない。してや、この身から隠し切れない、溢れんばかりの愛情を込めたものでもない。


 ただ、怖かったのだ。頭では分かっているはずなのに、逢えなかった時間が全てを過去へと塗り変えて、あの輝かしき日々を思い出の中へと封じ込めてしまうような、そんな得体の知れない恐怖に怯えていたのだ。


「まったく、いつまでも私に甘えてばかりでは駄目だからね」


 そんな彼女の心の慟哭を察したのか、ミストリアも一度強く抱き締め返すと、肩に手を掛けて引き離し、微笑を浮かべながら語り掛けてきた。


 それはまるで、姉であり、母であり、そしてであるような、不思議な安心感を与えてくれる。


『あなたはこのことを忘れてしまうけど……もしも、思い出したときには、必ず私に会いに来てほしい』


 不意に、あの言葉が脳裏をぎった。それは皇女に唇を奪われたとき、唐突に蘇った記憶である。そして、自分がミストリアと口付けを交わしていたことを思い出したのだ。


 一瞬、それを伝えるべきなのかと迷った。気恥ずかしいと思うし、真意を知りたいという想いもある。


 しかし、一度口に出してしまったら、何かが決定的に壊れてしまうような気がして……彼女はすんでの所で踏み留まった。


 やがて、ミストリアは彼女に背を向けると、何事もなかったかのように街道を先へと歩いていく。彼女は迷いを振り切るようにかぶりを振ると、それを追って駆け出すのであった。

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