第二章 4-4


「もう、用意は整ったようじゃな」


 初めて邸宅にやって来たときと変わりなく、馬車が停められた正門に現れた彼女の姿を認めて、サナリエルが飄々ひょうひょうとした態度で声を掛けてくる。下賜かしされた品々は、路銀も含めて全て貴賓室の卓子たくしに置いてきた。


 それは、明確な意思表示であった。必要な施しは甘んじて受けるが、それ以外は決して求めぬという、些か都合が良すぎる矜持きょうじではあったが、幸いにして皇女には伝わったようである。


 当然のことながら、彼女がプラナを消滅させる力を会得し、チョウセンの禁誓ゲッシュを解いたことも承知済みだろう。或いは禁誓ゲッシュが消滅すると、自動的に主人に伝わるような仕組みがあるのかも知れない。


 チョウセンは修練所に寝かせてきた。プラナを失って衰弱しているが、先の事件よりかは幾分ましだろう。もはや少女を縛るものは目前にしかないと確信している。


「左様に怖い顔をせずとも約束は違えぬ。あやつの罪状の一切を抹消し、ここを出るときには相応の支援もしよう」


 皇女は心外とでも言うように、両手を広げて大袈裟におどけてみせた。その微笑は欠片も崩れることはなく、全ては掌の上なのだと思い知らされる。


 一体どれだけの経験を積めば、このような深謀遠慮に至れるのだろう。一体どれほどの節義があれば、このように無慈悲な差配が出来るのだろう。


 しかし、不思議と憤りはなかった。未だたばかられているのではないかという畏れもない。代わりに抱いたのは……憐れみだった。それが表情に出てしまったのか、いつしか皇女の顔からは笑みが消えていた。


 ここには今、彼女と皇女しかいない。御者ぎょしゃは車体の陰に隠れており、使用人や護衛の兵士には人払いがされていた。一時の師傅しふであった老魔術師との別れも済ませており、もう教えることは無いとお墨付きまで頂いた。


 黙したまま皇女の瞳を見つめた。そこには深淵なる闇が潜んでいる。その正体はまだ分からない。だが、いつか必ず雌雄を決する日が来ることを予感させた。


斯様かように情熱的な瞳を向けられては、この身も激しく火照るというもの。なに遠慮は要らぬ、ニー様であればどんな罵詈雑言も謹んで受けるとしよう」


 皇女は再びあざけるように口角を上げた。残念ながら今回は完全に自分の負けだ。全ての元凶が皇女であったとしても、既に一月以上にもわたり庇護を受け、してやこれからもミストリアの元まで世話になるのだ。


 しかし、やられっ放しというのも癪に触る。せっかく遠慮は要らぬと言われたのだから、少しはやり返さないと気が済まない。彼女は仄かに笑みを浮かべながら、万感の想いを込めてその心情をあらわにした。


「ありがとう、サニー」


 時に、口は意思に反してこえを出す。それもまた偽らざる本心であった。不意を付かれた様子の皇女にやり返される前に、彼女は手を振って馬車へと乗り込んだ。


 やがて、皇女の指示により、落照らくしょうを帯びた車両が動き出す。帝都を越え遥か北へ、バラトリプル教国にまで至る道はミストリアへと繋がっている。車中の彼女は振り返ることなく、ただ前だけを見つめていた。

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