第二章 4-3


 彼女はきびすを返すと、再び修練所の扉に手を掛けた。一呼吸して、一気にそれを開け放つ。慣れ親しんだその場所では、先ほど自分にしていたように、チョウセンが喉元に短剣を突き付けていた。


 迷わず少女の傍へと歩み寄る。彼女の帰還に気付き、きょとんとした仕草で刃を下ろしたその腕を、物言わず再び掴み上げた。


 やがて、乱暴な行為に痛みを覚えたのか、少女の手からそれが落ちる。かさず彼女は遠くへと蹴り飛ばすと、尚も腕を離さぬままに正面から向き直った。


 しばし、そのまま二人で見つめ合う。少女の表情は依然として虚ろであり、そこには何の感情も込められてはいないかのように思われた。


 正直、どうしたら良いのか分からない。当初の予定どおり、荷物をまとめて正門へ向かうべきなのかも知れない。しかし、それでは遠からず、少女は自ら命を断つことになるだろう。


 何故なのか、心中で問い掛けるも答えは出ない。ただ、禁誓ゲッシュという絶対的な存在が、少女を強固に捕らえ蝕んでいるのだ。彼女は苦々しげな表情を浮かべながら、大きく一つ溜め息を吐いた。


 もはや、打つべき手は何もない。万策尽きたとはこの事だ。自害に向かう少女を救うためには、凶器を取り上げるだけでは叶わない。共に狂気も祓わねばならないのだ。


「一曲、私と舞踏おどってはくれませんか」


 どうしてその言葉が出たのか、後年になり思い返しても判然としない。恐らく、自分は少女の中に皇女を視ていたのだろう。そして、ずっと掴んだままであった手がどちらからともなく繋がれていく。


 豪奢な帝宮の大広間とは比べるべくもなく、殺風景で底冷えのする修練所。無音の空間で互いの息遣いだけを旋律に変え、あの日の躍動を想い描きながら少女を先導する。


 帝国の重鎮、新鋭を魅了した華麗な舞踏は鳴りを潜め、ただそこにあるだけの下賎げせんな踊り。バラバラな心で、ぎこちなく体を動かし合う無様な二人。


 きっと何も変わらない。これで少女が救われるわけじゃない。進退極まった末の足掻き、いやそれにも満たないただの現実逃避だ。


 でも、そこに確かに意味はあったのだろう。目の前の存在がただ生きているという実感。人の理性が認識するよりも早く、獣の本能がそれを知覚していた。


 生の感触、弱々しく小さな種火。しかし、始まりは儚くとも廻り合わせによれば大火へと至るように、やがて心の中に炎が芽吹く。


 それはらぬ原始の魔法。躍動のみがもたらす零細なる儀式。そう、自分はあのときそれをこの身に受け、そしていま少女に使


 微量な魔力の波動を感じる。効果は精神高揚に……共鳴励起といったところだろうか。ふと、どこかで誰かの高笑いが聴こえたような気がした。


 少女の呼吸が荒くなる。そろそろ体力が尽き始めているのだろう。しかし、身体機能の限界に反して、その表情は熱を帯びたようにも感じられる。


 視える、少女の体の動きが。解る、少女の心の機微が。臨界にまで高め合った魂の鼓動が、互いの存在をより間近に、寸時のれさえも許さぬように、ただの一つに重ね合わせる。


 その刹那、彼女は初めて純粋に願った。少女に生きてほしい、と。


 気が付けば、彼女の視界はにじんでいた。この気持ちはいったい何であろう。怒りであり、憎しみであり、悲しみであり、そして慈しみでもあった。


 今頃になって、事件の恐怖が、別離の惜情せきじょうが、偶人ぐうじん憐憫れんびんが、薄幸の義憤が、せきを切ったように押し寄せてきて、彼女はただ落涙するばかりであった。


 目に映るは少女の輪郭。蒙昧もうまいなる舞踏は未だ終焉を迎えることを認めず、無力たる呵責に苛まれながらも、ただ愚直に縋り付く。


 それは独りがりな罪と罰の輪舞曲ロンド。だが、少女もついには感化されたのか、いつしか嗚咽おえつが漏れ聞こえてきた。


 少女は語り出した。自分が孤児であり、幼い頃にチュウエイ家に引き取られたこと。皇女のもとに遣わされ、内情を探らされていたこと。容易に人をあざむき、裏切る自分が嫌いで堪らなかったこと。


 ……しかし、うちより響く声に突き動かされ、抗うことの出来ない恐怖に怯えていたこと。


 ようやく分かったような気がした。チョウセンもまた運命に囚われ、出口のない迷宮を彷徨っていた。


 自分が少女に向けていた想い、それは同類への哀憐あいれんと嫌悪であったのだ。故に、相反する感情が複雑に入り混じり、理解することを難しくしていた。


 しかし、今なら少女の本当の姿が見えてくる。外見からは感情の起伏に乏しく、何を考えているのか掴めなかった少女も、自分という鏡に映すことで、その構造が理解できる。そして、それを認識した瞬間、彼女には再び知覚の世界が視えていた。


 そこには無数の球体があった。これが少女の内包するプラナなのだろう。そして、その奥に守られている……いや、絡め取って盾とする歪で醜悪な鎖があった。それはどす黒い瘴気を漂わせており、とても直視に耐えられない。


 直感的にこれが禁誓ゲッシュの正体であると確信した。しかし、そこまで辿り着くには周囲の球体を消していかねばならない。彼女はなるべく消滅を最小限に抑えながら、眼前の道を切り拓いていく。


 並行するようにして、自分の腰に手を回す少女の力が弱まっていった。呼び掛けへの応答もまばらとなり、徐々に意識が失われているようだ。


 彼女はその場で少女を強く抱き止めながら、同時に知覚の世界を歩んでいく。そして、元凶たる魔力の根源に触れたとき、ずっと抱き続けていた疑問を口にした。


禁誓ゲッシュは皇女に変更されていたの?」


 少女がそれに答えることはなく、最後に頷きだけを返すと、事切れるように彼女の腕の中へと沈んでいった……。

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