第二章 4-2


 彼女は改めて修練所を見回した。最近はもっぱら貴賓室との間を往復する日々が続いており、今では随分と愛着が湧いてしまっている。


 もともとは老魔術師が皇女の修練のために設えたものであり、どうやら強力な結界が張られているようだ。


 それは上位攻性魔法にも耐え得るだけでなく、内部の魔力や音声を遮断し、外部に漏洩させない造りになっているという。何でもくだんの軍事演習の宴席にも同じような仕掛けが施されていたようだ。


 彼女は一頻ひとしきり周囲を眺めると、最後にチョウセンに目を留め、別れの言葉を口にしようとした。しかし、どんな言葉を掛けたら良いか、いやどんな感情を向けたら良いのか、分からなかった。


 結局、答えが見つからぬまま、彼女は入口に向けて足を進めた。チョウセンは修練所にまだ用があるのか、その場を微動だにしなかったが、擦れ違い様に掛けてきたのは意外な言葉であった。


「御顔に傷が残らなかったことが唯一の救いでした」


 彼女は反射的に左の頬に手指しゅしわす。そこにかつて短剣が走った溝は既になく、視覚的にもその痕跡を窺うことは出来なかった。


 あの事件の直後、皇女に招聘しょうへいされた御典医ごてんいにより彼女の治療が施された。


 しかし、どんなに高位の回復魔法であろうとも、外傷を完全に消し去ることは出来ず、結局は本人の自然治癒能力に任せる他ない。


 故に、しばらくは顔に傷痕が残ることになるのだが、それに当の本人よりも激しく取り乱したのが皇女であり、老魔術師に命じて左頬にだけ幻術を掛けて隠そうとした。


 れど、不思議なことに何度試しても魔法は失敗してしまい、線傷せんきずは浮かび上がったままであった。


 そのときの皇女の狂乱ぶりたるや、精兵たる護衛すらも震え上がるほどに凄まじいものであったのだが、幸いにも程なくして傷跡は目立たなくなり、やがては消えていった。


 この三日間、チョウセンからは何度も事件についての謝罪を受けていた。もっとも、元凶が主人であったトウタクと掛けられていた禁誓ゲッシュにある以上、その責を問うことは出来ず、故に言葉にもどこか他人事のような印象を抱いていた。


 しかしながら先の言葉は幾分か、チョウセン自身の気持ちが込められているような気がして、自然と彼女の表情を緩めさせた。それを謝罪の許容と捉えたのか、少女は彼女に向けて大きく一礼した。


 チョウセンはこれからどうなるのか。一度は助命した以上、再び処刑するような真似はしないだろうが、一生この屋敷からは出られないかも知れない。ただでさえ、事件の詳細を知る立場にあるのだから、皇女も容易くはその身柄を解放することはないだろう。


 結局、チョウセンを救うことは出来なかった。いや、始めから救おうとしていたのかも怪しいところだ。プラナを奪うということ、それは怒りや憎しみの感情では叶わなかった。ならば、一体何が足りなかったというのだろうか。


 しかし、今更考えても詮無きことであった。彼女は無言で修練所を後にすると、貴賓室に戻るために邸宅へと足を向けた。既に天空は朱に染まっており、間もなくあいへと変わることだろう。


 屋敷の庭園を歩いていると、相変わらずのみやびさに思わず舌を巻いてしまう。何でも帝宮に仕えていた熟練の庭師を引き抜いたらしく、花紅柳緑かこうりゅうりょくを体現するかのように自然な調和が保たれていた。


 それはあまりにも繊細かつ緻密なものであり、素人が迂闊に手を出せば立ち所に均衡を失い、この美しい風景に傷を付けてしまうことだろう。


『御顔に傷が残らなかったことが唯一の救いでした』


 その言葉が再び脳裏に蘇る。彼女とて貴族の一員であり、容姿を気にしない訳ではない。しかし、些か大げさかと思える言葉には苦笑してしまう。まるで、もう何も未練がないみたいではないか。


 不意に、ある予感がした。それは荒唐無稽なものではないだろう。十分に考慮すべき事態であり、りとて干渉することもまたはばかられるものであった。


 だから、その行動は義心から生まれたものではない。ましてや友愛からでもない。強いて言うなれば、気付いた己自身への自負であった。

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