第二章 4-1


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「私たちの目的はあなただけ。大人しくここで死んでくれれば、彼女に危害は加えないわ」


 チョウセンはそう言い放つと、手に持った短剣を彼女の喉元へと押し当てる。彼女は椅子の上に縛り上げられており、身動きを取ることが出来ない。目前で繰り広げられる光景に、皇女は憤怒ふんぬの形相で少女を睨み付けていた。


 チョウセンは黙したまま、その視線を彼女と皇女の間で行き来させる。相変わらず感情の起伏に乏しく、何を考えているのかは読み取れない。やがて、刃の怜悧れいりな感触があの瞬間を想起させ、彼女はせるように咳き込んでしまった。


「ニー様、大丈夫ですか。ええい、いつまでやっているつもりだ!」


 皇女の叱咤にチョウセンは短剣を収め、彼女を介抱すべく背中をさすろうとする。その瞬間、彼女は咄嗟に少女の腕を掴み上げた。


 そして、我を忘れたように力を込めて握り締める。堪らず少女が表情を歪めると、途端に皇女が割って入って二人を引き離した。


「……ごめんなさい」


 荒れていた呼吸を整え、彼女は動揺を静めながら謝罪の言葉を口にする。慌ててなだめようとする皇女と、深くこうべを垂れる少女を見て、今回もまた失敗に終わったことを彼女は痛感していた。


 人間からプラナを奪うという試みは、開始から三日が経過した現在も一向に進展する兆しが見えなかった。そして、ミストリアをセイトに引き止めるための工作も限界に達しようとしたとき、ついに残された時間が終わりを迎えたことを悟った。


 そこで最後の悪足掻わるあがきとして、皇女の発案で例の事件の再現が行われる。しかし、その顛末は見てのとおりであり、いたずらに心の傷を露呈させる結果となってしまった。


 彼女の心中には、未だあの一件に対する憎悪が渦を巻いている。それが却って空属性の発動に能動的に働くのではないかと考えられたが、どうやらそう単純な話でもないようである。


「妾は馬車の様子を見てこよう。ニー様はゆっくり身体を休めていてほしいのじゃ」


 彼女に気遣うような言葉を掛けると、皇女はチョウセンを伴って修練所を後にした。二人が去った後、彼女は椅子から転げ落ちるように床にせると、またぼんやりと殺風景な天井を眺めていた。


 窓を照らす陽光に朱が差し始めていた。少なくとも恒星が沈む前には出発しなければならない。


 皇女は馬車を用意してくれただけでなく、街道沿いにある宿場町の手配も済ませており、まさに至れり尽くせりである。しかし、肝心の自分がこのようなていたらくでは、あまりの不甲斐なさに申し訳が立たなかった。


 そもそも、本当に可能なのだろうか。老魔術師による対魔法の修練も並行して進められており、魔法を消去する技術には一層の磨きが掛かっている。


 りとて、魔法を構成するマイナと人体に存在するプラナとでは勝手が違う。大体にしてプラナがどういったものなのか、まだよく分かってはいないのだ。


 理屈としては、魔法と同様にプラナの魔力も対消滅させてしまえば良いのだろう。そのために必要なことは対象の理解であるのだが、人体の構造、それも外見的な部分だけでなく内面までもとなると、とてもではないが手に負える代物ではなかった。


 最初から土台無理な話だったのかも知れない。むしろ、魔法を消去できるだけでも信じ難い成果である。過ぎたる力を追うよりも、今あるものを活用すべきではないだろうか。


 もともと、自分には何もなかったのだ。何もない自分にここまでのことが出来たのだから、これは重畳ちょうじょうというものだ。何もない自分が何もなくさせる力を手に入れる……それはとても滑稽で、それでいて相応なようにも感じられた。


「そろそろ出発のお時間です」


 唐突に頭上から響いた声に、彼女は驚いて飛び起きる。視線を向ければそこにはチョウセンの姿があり、いつの間にか戻ってきたようである。


「準備が整いましたら、正門までいらっしゃるようにと申し遣っております」


 どうやらこれまでのようだ。あとは貴賓室に戻って旅支度をするだけなのだが、軽装だった荷物はこの滞在中に随分と増えてしまった。


 それは主には衣装や装身具であり、皇女からの御下賜品ごかしひんでもある。屋敷に長期滞在するにあたり、同じ服装ばかりでは困ると強く言い含められてしまったのだ。


 もっとも、あれやこれやと玩具のように着せ替えられたのは、多分に皇女の趣味が入っていたと思う。特に正装ドレスを身に付けたときには、それがまた大層似合っていたらしく、皇女の興奮ぶりたるや身の危険を覚えたほどだ。


 昨夜はその中から必要なものを厳選し、同様に下賜かしされた肩掛け鞄に詰め込んだ。一方、路銀提供の申し出に関しては流石さすがに固辞しようとした。


 しかし、食客しょっかく見窄みすぼらしい真似をさせることは、屋敷の主人としての沽券に関わると力説されてしまい、今更遠慮しても仕方がないと思い直し、有難ありがたく頂戴することにしたのであった。

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