第二章 2-2


「ふわッハハハァーッ! これよ、これよっ、これなのよなぁっ!!」


 叫声きょうせいを上げて高笑いをするサナリエルに、彼女が最初に抱いた感情は恐怖ではなく、痛心であった。


 無我夢中のこととはいえ、帝国の皇女を突き飛ばし、あまつさえ寝台の支柱にぶつけてしまったのだ。これは、どこか打ちどころが悪かったのかも知れない。


 もしも皇女の身に万一のことがあったら、もはや自分の命を差し出したとしても到底償い切れるものではないだろう。


 それは王国やホーリーデイ家を窮地に陥れ、ようやく思い出せた約束さえも閉ざすことになるのだが、そのとき彼女の胸に去来していたのは、意外にも皇女の身を案ずるものだけであった。


 思い返してみれば、皇女は決して悪い人間ではなかった。無論、帝国内で絶大な権勢を誇り、国家の暗部にも密接に関与していると噂されるため、自分の知らぬところでは様々な権謀術数をろうしていたことだろう。


 しかし、それでも皇女は傍に居てくれた。自分自身を見失い、もう何もすることが出来なくなっていたとき、それでも寄り添ってくれていたのは皇女であった。


 今更こんな時になって、どこまでも底の知れない超然としたその姿に、自分は救われてもいたのだと気付かされた。


 その皇女が恍惚の表情を浮かべ、口からよだれを垂らしながら哄笑こうしょうしている。もうこんな痛ましい姿は見たくないと、罪悪感に苛まれながら目を逸らそうとしたとき、彼女の耳に聞き覚えのあるしわがれた声が響いてきた。


「やれやれ、随分と痴態を晒されておりますな」


 貴賓室の扉へと身を翻した彼女の目に映ったのは、かつての軍事演習の陣幕で言葉を交わした、あの老魔術師であった。


 ミストリアが大陸随一とまで評した人物であり――もっともその比較対象に自身は含まれていないのだろうが――、久方ぶりの邂逅かいこうに驚かされる。


「ふん、斯様かようなことよりもだ。やはり、妾の見込んだとおりであったろう」


 いつの間にか、皇女の表情はまたいつもの飄々ひょうひょうとしたものへと戻っていた。その光景に面食らいながらも、大事なかったことに心から安堵する彼女を置き去りにして、二人は何やら確信したように頷き合う。


「確かに傾国傾城ポイズン・チャームは行使され、姫様のとりことなっておりました。魔法は失敗したのでもなく、防がれたのでもなく、効かなかったのでもなく、解かれたのでもなく、切れたのでもありません。しかし、失われてしまったのです」


 何かとんでもない話をされた気がするが、二人は意に介そうとはせず、熱を帯びたように議論を続けていく。


 時折、ついに第五の属性が顕現けんげんしたとか、天人てんじん地姫ちぎが気付かぬはずはないとか、不穏な言葉が頭ごなしに飛び交い、堪らず彼女が憮然ぶぜんとした表情で口を挟もうとしたとき、ようやく皇女が向き直った。


「天人からもたらされた力……その属性が幾つであるか、ニー様はご存じか?」


 突然の問い掛けに彼女は当惑した。属性と言えば、火水風土の四属性に決まっているではないか。いくら魔法が使えないとはいえ、それくらいのことが分からぬはずもない。


 しかし、そんな思考は皇女の意味深な笑みによって否定されてしまう。いったいどういうことなのか。皇女の意図が分からず、しばし考え込んでいた彼女は、やがてあることに思い至った。


「ひょっとして、六大のことですか?」


……


……


 遥か遥か遠い昔、人がまだ獣と大差ない生活を送っていた頃、天人と呼ばれる神々が霊峰タカチホに降臨した。


 そして、人々に幾多の智慧ちえと技術を授け、文明が築かれていくことになるのだが、その根幹を成していたのはある力の概念であった。


 それが六大であり、後世に魔法と伝えられるものである。つまり、火水風土の他にもまだあと二つの属性が存在するということになる。


 しかし、それは失伝してしまったのか、或いは始めから行使できなかったのかは定かではないが、現代における術者は皆無であり、概念のみの存在であるとも考えられてきた。


 これら二つの内、一方は名称すらも不明だが、もう一方については概要だけは伝えられていた。それは『くう』と呼ばれており、魔法を打ち消してしまう力があるとされている。


 その存在については、以前ミストリアからも聞かされたことがあった。魔法の消去そのものについては、マイナの魔力出力を調整するためのプラナとの対消滅の応用により、同様の結果を導くことは可能だという。


 しかし、空属性の本質はまた別のところにあるらしく、ミストリアを以ってしてもそれはあたわず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたものであった。


 何処の誰にも、あのミストリアでさえも行使できなかった力……そんな真偽も定かならぬ御伽噺おとぎばなしのようなものが一体どうしたというのだろう。彼女はいぶかしげな表情を皇女に向けたが、逆に呆れたように返されてしまう。


「ニー様には心当たりがあるじゃろう。先ほどのことだけでなく、あの忌々しい事件においてもな」


 確かに、彼女がトウタク一味に捕らえられ、ミストリアが害されようとしたとき、実際には幻を魅せて救出するつもりであったのだろうが、それにしては魔法を解く時機がおかしかったように思えた。


 チョウセンが彼女に短剣を突き付けていたのだから、もっと肉薄して取り上げるようにしていれば、より安全かつ確実に対処することが出来たはずである。


 ひょっとして、あれは魔法を解いたのではなく、無くなってしまったのではないだろうか。ミストリアの魔法を消去してしまう……そんなとんでもない力が、自分に宿っているとでもいうのだろうか。


 しかし、今まで魔法に苦渋を飲まされ続けてきた彼女には、簡単にそれを信じることなど到底出来はしなかった。


「……私はマイナに嫌われていますから」


 彼女は自嘲気味にいつもの決り文句を口にする。今までそうやって自分は魔法と無縁であると諦めてきた。そんな彼女に向けて老魔術師は静かに首を振ると、淡々と空の力について語り出した。


 心做こころなしか、その瞳には羨望とも憧憬とも付かない、筆舌に尽くしがたい感情が浮かんでいるようにも見えたが、彼女にはその真意を読み取ることは出来なかった。

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