第二章 2-1


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「ニー様、少し話をしても良いじゃろうか」


 返事をする間もなく、いや問い掛けるよりも早くに開かれた扉に向けて、彼女は着衣の乱れを正すと肯定の言を述べた。


 些か私的な配慮に欠けているようにも思われたが、この邸宅の主、してや帝国の元首に連なる貴人に対して、いやしき食客しょっかくの身が不平を言えるはずもない。


 しかし、扉から顔を覗かせたサナリエル皇女は、今頃になって自身の不躾さに気付いたのか、寝台から立ち上がろうとした彼女を制すと遠慮がちに隣へと腰掛けた。


「なんと痛ましいことか。ニー様には詫びても詫びきれぬもの」


 左頬に走った縦に一筋の刀傷。いつの間にか、這うように撫でる手指しゅしに些かの心地良さを感じながら、彼女はもう幾度目かも忘れた謝罪の言葉を上の空で聴いていた。


 ホーリーデイ家の嫡子が帝国の武官の一派にかどわかされ、天人てんじん地姫ちぎの暗殺が企てられたという未曾有の大事件は、しかし決して公になることはなく、皇女の手腕によって秘密裏に処理された。


 事件の詳細をる者は、その場に居合わせた者を除いて僅かであり、決して王国側に伝達されることはなかった。そこには失態を隠したい帝国の思惑があったが、彼女もまた事を荒立てるつもりはなかった。


 仮にこの一件が王国の知るところとなったとして、帝国に対する反発心が高まりこそすれ、具体的な行動にまでは至らないだろう。むしろ、天人地姫をいたずらに危難に晒したとして、ホーリーデイ家が糾弾きゅうだんされる可能性すらあった。


 ミストリアが単身で旅立ったいま、もはや御幸ごこうを妨げるものなど皆無である。トウタクたちは一網打尽にされ、事件に関与した者もことごとく捕縛されたと聞いている。


 あの侍女……チョウセンの処遇だけは少し気になったが、皇女からすれば膝下しっかから生じた恥であり、敢えて問うことは躊躇ためらわれた。


 本当はすぐにでも王都に戻るべきだろう。御幸の陪従ばいじゅうを自ら拒否した今、その身にはホーリーデイ家の嫡子としての義務が課せられる。それこそが本来在るべき姿なのだが、今の彼女には素直に受け入れる気力が湧いては来なかった。


 一層いっそのこと、どこか誰も知らない遠くへ行きたかった。王国もホーリーデイ家も忘れて、ただの一人の人間として生きたかった。


 それは叶わぬ夢であり、世間知らずな貴族の小娘の戯言でしかないのだが、思えばあのとき母はこれを見越して、莫大な路銀を用意してくれたのかも知れない。


 皇女はそんな自分に、いつまでもここに居て良いと言ってくれた。ここでミストリアの旅の結末を見守ってはどうかと。皇女は私兵や密偵を多数抱えており、今もなおミストリアの動向を探っていると悪びれもせずに明かしてくれた。


 それは彼女にとって都合の良い甘言であった。何もしないことに理由を与えてくれる消極的な肯定であった。何かをしている気にさせてくれる惰性的な誘惑であった。何のことはない、彼女は自ら選択することを放棄しただけなのだ。


「ニー様のことは妾が守る。なにも心配することなどない」


 皇女はそう微笑むと、頬の傷跡を撫でる手を滑らかに肩へと回し、そっと自らの元へと引き寄せた。皇女の言動には絶大な権力に裏付けされた重厚さが宿っており、それはかたわらにいる虚ろな自分を強く支えてくれるようにも感じられた。


 もはや彼女には抵抗する意思はなく、ただされるがままにその身を委ねていた。そして、左の二の腕が皇女の豊かな胸元に触れ、おもむろにその弾力性を感じた瞬間、二人の唇が重ねられていた。


 それは初めての体験であった。誰かに唇を奪われる……してや、それが同性であるなど思いもしなかったが、存外に嫌悪感を抱かぬ自分に驚いた。もう居ない誰かの温もりが、ただただ恋しくて、その代償を求めているだけなのかも知れない。


 しかし、一時の気の迷いであろうとも、牙を隠した毒蛇の纏繞てんじょうであろうとも、今はこのうちなる苦しみを忘れさせてくれる刹那の快楽に耽溺たんできしていたかった。


 固く目をつむった彼女に向けて、皇女から何か熱いものがせきを切ったように這入はいり込んでくる。その止めどない瀑布に理性が押し流されていく。


 そして、もう何も考えられなくなりそうになったとき、彼女は確かに未だ離れぬ唇から発せられるこえを聴いた。


『サニーと呼んでください、ニー様』


 ……そんなことで良いのか。皇女は、サナリエルはそんなことでよろこんで、満足して、自分を求めてくれるのか。ならば、それに応えなければいけないと思った。


 彼女は未だ塞がったままの口から、求められる言葉を振り絞ろうとした。しかし、次の瞬間、天上から一筋の星が零れ落ちるかのように、唐突にある記憶の残滓ざんしが脳裏をよぎった。


『あなたはこのことを忘れてしまうけど……もしも、思い出したときには、必ず私に会いに来てほしい』


 そこに在ったのは、幼き日のミストリアであった。それはずっと昔のこと、今の今まで忘れていたことだ。


 何時いつなのかも分からない、どういう経緯なのかも知らない。しかし、確かに、そのとき自分とミストリアは口付けを交わしていた。これは、初めてのことではなかったのだ。


「や、やめてぇっ……!」


 不意に甦った記憶により、我に返った彼女は皇女を両手で押し退けた。いつの間にか唇は離れており、声は空気を振動させて伝わっていく。


 あれだけの存在感を放っていたはずの皇女は、今はただの華奢きゃしゃな少女として寝台の上を軽々と転がり、その支柱にしたたかに頭を打ち付けていた。


 その光景を目の当たりにして、彼女は自分の仕出かしてしまったことにおののいた。帝国の皇女に、してや自分を庇護し、多少強引とはいえ慰めようとしてくれた相手に、このような乱暴を働いてしまったのだ。


 これは深刻な国際問題に発展してしまうかも知れない。或いはこの場で無礼討ちにされてもおかしくはない。しかし、もう思い出していた。それが何を意味するのかは分からないが、それでも自分には確かにミストリアと交わした約束があった。


 そう……まだ、あったのだ。


 あのとき、手を取らなかった。手を伸ばせなかった。


 だから自分の旅はここで終わり、ミストリアの旅はここから続き、そんな哀しくて切なくて、醜くて無様な結末でも、天人地姫とホーリーデイ家ならば意外とにはなるのだと……どこか物分りよく、綺麗に片付けてしまおうとする自分がいた。


 でも、それは間違いだったのだ。本当の自分はまだミストリアのことが好きで好きで堪らなくて、今すぐにでも追いかけたいと願ってやまないのだ。そして、それはまだ望むことを許されて……いや、先ほど許されたことなのだ。


 そこには、久方ぶりに瞳に生気を宿らせる彼女がいた。


 何も出来なくとも、それはしない理由にはならないのだと、うそぶいて誤魔化して強がって、それでも歩みを止めない彼女がいた。もう一度ミストリアに逢うためならば、どんな苦難の道も辞さないのだと。


 やがて、突き飛ばされた皇女がゆっくりと支柱から身を起こす。既に彼女の覚悟は決まっていたが、恐る恐るその表情を窺ったとき、思わず息を呑んでしまった。


 帝国の皇位継承権を有し、公私ともに多くの手勢を揃え、幾重にも策謀を張り巡らし、妖艶ようえんに彼女を籠絡ろうらくした。そんな人物がいま何の取り繕いもせず、歓喜と恍惚と劣情を余すことなく垂れ流していた。


 それは有りていに言って、狂っていた。

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