第一章 10-3


 不快な臭気が漂う根城の入口にミストリアは立っていた。それは後光を帯びたかのように神々しく、彼女だけでなくトウタクたちもまた驚きを隠せずにいた。


 しかし、それも束の間のことであり、逸早いちはやく我に返ったチョウセンが短剣を彼女の喉元へと押し当てる。


「私たちの目的はあなただけ。大人しくここで死んでくれれば、彼女に危害は加えないわ」


 未だ動揺が収まらぬ様子のトウタクに代わり、チョウセンがミストリアに要求を突き付けた。やがて、トウタクも落ち着きを取り戻したのか、同様の要求をミストリアに迫ってくる。


 そんなことをミストリアが呑むはずがない。ミストリアの力を以ってすれば、幾らでもこの場を制することが出来るのだ。


 仮に自分が刺されたとしてもすぐに魔法で治療してくれるし、たとえ万一のことがあったとしても、それはミストリアの命に……地上の星の光輝こうきに到底見合うものではない。


「良いわ、私を殺したいのならば好きにしなさい」


 しかし、ミストリアの口から発せられた言葉は、彼女の予想だにしないものであった。当のトウタクたちもまさか素直に従うとは思ってなかったようで、にわかには信じられないような表情をしていたが、次第に卑劣で残忍な笑みへと変わっていった。


 彼らが剣を抜いてミストリアに近付くのを彼女は黙って眺めていた。チョウセンの刃は未だ彼女に向いており、満足に動くことは叶わない。


 やがて、障壁がトウタクたちの行く手を阻む。何のことはない、彼らではミストリアには指一本触れられないのだ。


「あの小娘の命が惜しくば、これを解いてもらおうか」


 解く必要はない、自分は大丈夫だと叫びたかった。しかし、声を出すことは許されず、ミストリアの指先がトウタクの剣先に触れると、そこから一筋の血がしたたり落ちる。


 トウタクは不快な笑い声を響かせると、一度剣を上へと引き戻した後、それを彼女の胸元へ深々と突き立てた。透き通るような白い肌が赤黒い鮮血に染まると、他の男たちも次々と刃を突き刺していった。


 ミストリアは無残にも串刺しにされ、地面にはおびただしい量の血が池のように溜まっていく。やがて、トウタクたちの間から雄叫びのような喊声かんせいが湧き上がった。


 彼女は自分の眼が信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 あのミストリアが、何者にも侵せぬ絶世独立ぜっせいどくりつの存在が、地上に煌めき続ける最後の星が、演習では無数の矢を弾き、魔法を防ぎ、全軍の進撃をも完封した天人地姫が、こんなことで、こんなところで、こんなになって良いのだろうか。


 ……いいわけがない。良い訳がないじゃないか。なぜだ、何でこうなるのだ。ミストリアは無敵だ。誰にだって、どんな国にだって傷一つ付けられない。なのに、どうしてこんな光景を見せられているのだ。


 一体どんな理由があってミストリアを奪うのか。どんな理由があれば、ミストリアを奪うことが許されるのか。誰か教えてほしい。もしも、それが出来ないのなら、もう何も見せないでほしい。


 視界が歪む。思考が淀んでいく。自分の立ち位置が分からなくなり、世界から色彩と音声が失われていく。まるで夢の中のように、真白の空間に世界が塗り替えられていく。


 しかし、彼女は万感の怒りを以って、強引に精神を真白の世界から引き戻した。


 そんなのは決まっている。付いてきてしまったからだ。何も知らぬ自分が、何も出来ぬ自分が、愚かにも天上に手を伸ばし、分不相応な望みを抱いたからだ。自分こそが天人地姫の……ミストリアの瑕疵かしだったのだ。


 止めどなく溢れる悔恨と悲憤に全身全霊が苛まれる。許せない……ミストリアをこんな目に遭わせた奴らを許せない。しかし、それを遥かに凌駕して、自分で自分を許せない!


 歓喜に酔いれるトウタクたちに、喉元に短剣を突き立てるチョウセンに、そして何よりも自分自身に、彼女は魂魄が焼き切れるほどの憎悪を込めた。


「レイニー、やめてっ!」


 不意にミストリアの声が聴こえた。室内全体を白いもやが覆い……いや、今まで覆っていたものが晴れたかのように、全身を貫かれたミストリアは消失し、代わりに彼女を拘束するチョウセンの眼前に五体満足の状態で姿を現した。


 突然のミストリアの出現にチョウセンも動揺を隠し切れずにいたが、拘束した彼女を掴みながら短剣を振りかざして牽制しようとする。


 しかし、チョウセンは彼女の身体に触れた瞬間、突然事切こときれたように崩れ落ちた。そして、主を失い宙に舞った凶刃が彼女の頬を斬り裂き、縦に一筋の鮮血を走らせる。


「貴様らっ、これは一体どういうことだ!」


 そのとき、扉を蹴破ってサナリエル皇女が室内に飛び込んできた。背後には二十人ほどの兵士を引き連れており、その形相は憤怒に染まっている。


「おのれ、よくもニー様のお顔に傷を! 厳命する、こやつらを皆殺しにしろ!」


 皇女の命を受けた兵士がトウタクたちに斬り込んでいく。護衛を務める精兵の練度は高く、瞬く間に一人、また一人と斬り伏せると、物言わぬ骸の山を築いていった。


「わ、我が同胞たちに何をするかぁぁっ!」


 トウタクが剣を振り回して応戦する。若くして武官に抜擢されたこともあり、その技量は確かなようだ。護衛たちは数に任せて取り囲むが、容易に討ち取ることが出来ないでいた。


「この女狐めぇ、話が違うではなっ……うぉぉぉぉぉ!!」


 トウタクは皇女を睨み付けるが、何かを叫ぶ途中で身体を紅蓮の炎が包み込んだ。これは火属性の上位攻性魔法『蓮華往生クリムゾン・タイド』だろう。


 しかし、無詠唱でこれほどの魔法を行使するなどあり得るのか。それに、先ほどトウタクが言い掛けたのは……いや、もうそんなことはどうでも良い。


 彼女には何も分からなかった。身体は幼子のように震え、何も考えることが出来なくなっていた。やがてミストリアが傍にやって来ると、その手を自分に向けて差し伸べてくれた。

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