第一章 10-1


-10-


「早朝、天人てんじん地姫ちぎは旅立たれたようです」


 彼女が目を覚ました時、傍らには昨夜世話になったチョウセンの姿があった。


 ここは皇女の私邸の貴賓室であり、相変わらずの豪華な寝台に横たわっているのだが、もう一方には在るべき者の姿はなかった。


 やはり、ミストリアは自分を置いて旅立ってしまったのだ。しかし、不思議と悲壮感はなかった。むしろ湧き上がってきたのはある種の使命感、そして万能感である。


 これには何か理由があるに違いない。それが帝国の策略なのかは分からないが、あのときミストリアは信じてほしいと言った。ならば、自分も信じて後を追うだけのことだ。


衛士えいしや使用人には、あなたを屋敷に留めるようにめいが出ております。ここは私にお任せください」


 彼女は黙って頷くと洗浄の済んだ装束を受け取り、素早く身支度を整えて部屋を出た。屋敷には厳重な警備が敷かれていたが、二人は昨夜のように隠し通路を駆使しながら、誰にも見咎みとがめられずに裏手にまで辿り着くことが出来た。


 そこでもまた堅牢な縦格子が立ち塞がるが、チョウセンが鉄棒の一本に触れると呆気なく外れてしまう。どうやら事前に細工がされていたようで、空いた隙間から帝都の裏通りへと抜け出ていく。


 そして、しばらく進んだ先には一台の幌馬車ほろばしゃがあった。そこでチョウセンが歩みを止めると、中からは数人の武装した男たちが降りてくる。


 彼らもまた協力者のようだが、肝心のミストリアはどこにいるのだろう。もしや、馬車が必要なくらいに離されてしまったのか。彼女は不安に駆られてチョウセンに問い掛けるが、返ってきたのは背筋が凍るような冷笑であった。


「さあ、厨房では膳夫かしわでに糧食を所望されてましたから。今頃は必死になってあなたを探しているのではありませんか」


 咄嗟に彼女はきびすを返すが、ときは既に遅く、男たちによって羽交い締めにされていた。口と鼻を綿布で塞がれ、次第に薄れゆく意識の中で、彼女は自分がミストリアを信じきれなかったことを悔やんでいた。


……


……


「いったい、私をどうするおつもりですか」


 薄暗い一室で彼女が目を覚ますと、そこには帝国の武官であるトウタクの姿があった。


 後方にはチョウセンを始め先ほどの男たちが付き従っている。彼女は粗末な椅子に座らされ手足を縛り付けられており、もはやかどわかされたことは明白であった。


 トウタクは問いには答えず、何やら薄気味悪い笑みを浮かべている。夜宴においては明朗快活な人物かと思われたが、どうやらこちらが本性なのかも知れない。


 それはチョウセンも同じなのか、邸宅で見かけた真面目で物静かな侍女の姿はもうそこにはなかった。


 貴族の家に生まれた者の宿命として誘拐への対応は教わっていた。基本的には犯人の目的は金銭であり、下手に抵抗しなければ命は勿論、無傷で解放されることが常だという。


 もっとも、今回は政治的な意図が多分にあると推測されるため、どこまで当て嵌まるのかは不明である。しかし、昨日は国を挙げて天人地姫を奉迎した以上、トウタクらの行動は帝国の意思に反するものであるのだろう。


 仮に一部の勢力による暴走であったとすれば、いずれはミストリアや皇女が助けに来てくれるだろう。今すべきことは少しでも時間を稼ぐことであった。


 そうして、トウタクの姿をまじまじと見つめ直したとき、胸鎧ブレストアーマーに刻まれた徽章きしょうに目が止まる。そこにあったのは帝国の象徴たる『炎』ではなく、今では古い文献にのみ残された『火』の紋章であった。


 にわかに彼女の顔から血の気が引く。この時代に、特にこの地において、その紋章を使うなど正気の沙汰ではない。


流石さすがはホーリーデイ家の小娘よ。そう、我らが忠誠を誓うのは腑抜けた帝国などではない。偉大なるカイン皇国である!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る