第一章 9-2


「まったく、レイニーにこんな趣味があるなんて知らなかったわ」


 穢れもちぎりもなき貴族令嬢が、帝国の皇女の私邸を裸体に等しき姿で歩き回る。もはや不敬なのか誓約うけいなのか分からぬ事態を経て、彼女はミストリアから自身の甘さ、迂闊さを懇懇こんこんと諭されていた。


 自分が騙されやすい性格であることをこれ以上なく痛感した彼女は、黙ってその言葉を受け入れていた。


「それにしてもあの皇女、ちょっと趣味が悪すぎるんじゃない?」


 彼女は掛け布団を捲りあげて、あらためて自身の胸元を確かめてみた。間違いなく視えている。それはどうにも疑いようがなかった。


 皇女がなぜ、自分にこのようなものを用意したのかは分からない。質の悪い悪戯か、或いは何かの手違いか、それともこれもまた正式な寝衣なのだろうか。


 いずれにせよ、このままでは外を出歩くことも叶わない。チョウセンには明朝までに洗濯と乾燥を済ませ、部屋まで送り届けてもらう手筈となっていた。


 やがて、ミストリアも小言を言うことに疲れたのだろう。最後には渋々といった表情で矛を収めてくれた。


「まあいいわ、今夜はもう寝ることにしましょう」


 そして、就寝の言葉を告げて反対方向へと寝返りを打つ。彼女もまた、明日は早くに起きねばと決意しながら瞳を閉じた。


 長旅と舞踏の疲労により、弛緩した肉体が寝台へと沈み込んでいく。今夜はぐっすりと眠れそうだ。しかし、そんな思惑に反して、にわかに心中には不安が押し寄せてきた。


 ミストリアの真意、皇帝との会談、自分はそれを本人に訊こうともしていない。この場で問いただし、疑念を解消しないという選択は、果たして正解だったのだろうか。


 自分はミストリアのことを信じていないのか。いや、信じているからこそ訊かなかったのか。彼女は自身のことすらもよく分からなくなっていた。


 やはり、このままでは駄目だ。彼女は眠りに就こうとする身体に抗い、再び目に力を込めて瞼を抉じ開ける。いつの間に灯りが落とされていたのか、室内は先ほどとは打って変わって静寂な暗闇に包まれていた。


 不意に、近くで誰かの息遣いを感じた。一瞬、何者かが侵入したのかと警戒するが、すぐにそれがいつも感じていたものであったことに気付く。そして、凛とした澄んだ声が耳の奥に響いてきた。


「私の望みは一つだけ。いま目の前にいるあなたが幸せになること……それだけは、何があっても信じてほしい」


 ええ、信じている。あなたを信じてここまで来た。あなたを信じる自分を信じたい。そして、彼女の意識は今度こそ暗い深淵の中へと落ちていった。


……


……


 その夜、夢を見た。それは王都で見た幼い頃の夢ではなく、目前にはただ真白ましろの空間だけが広がっていた。そこは色彩も音声も失われていたが、どこか奇妙な懐かしさを感じていた。


 四方も上下も全方位が白で埋め尽くされ、地面が存在しているのかも定かではない。果たして、自分が立っているのか、横たわっているのかも分からなかった。


 徐々に時間の感覚も希薄となる。もともと夢の中であるのだから、時間などあってないようなものではあるが、自分が何時いつから此処ここにいるのか、或いは何時いつまで其処そこにいるのかも分からなかった。


 次第にこれが夢ではない可能性を抱き、段々と恐怖の感情が芽生えてきた。本当に考えるべきことは、何時いつではなく何故なぜなのだ。しかし、そこでまた戸惑いを覚えた。自分はいったい何者だれなのだろう。


 ホーリーデイ家の嫡子、天人てんじん地姫ちぎの友、御幸ごこう陪従者ばいじゅうしゃ。それは認識できるのに、自己を確立させる固有概念……そこに続くべき名が出てこなかった。


 これ以上、此処に居てはいけないと理性が警告していた。早く此処から出なければ、戻ることが出来なくなってしまうかも知れない。


 しかし、一体どこに戻れば良いのだろう。自分はどこから来て、どこに帰っていくのだろうか。


 何一つ分からぬまま、起きるでもなく、寝るでもなく、進むでもなく、止まるでもなく、時が経つのも分からずにただ無為に過ごしたとき、不意に前方から光明が射し込めてきた。


 その光によって初めて距離が知れた。距離が知れたことで、自分が進んでいたことに気付けた。


 その輝きは指標であり、目標であり、希望そのものであった。やがて、光体との距離が縮まりその正体が視えてきたとき、それが一人の人物であることに気が付いた。


 それはミストリアによく似ていた。そして姿を認識したことにより、自分がレイネリアであることを思い出す。


 やはり、ミストリアこそが自己を足らしめる存在。地上の星の輝きは何処いずこにおいても自分を導いてくれるのだ。


 そのことを何よりも喜んだ彼女が、次第にこれが夢であると知覚するに連れて、真白の空間は色彩と音声を取り戻していく。目覚めの時が近付いていることを感じた彼女は、最後にもう一度だけ光体に向けて目を凝らした。


 しかし、そこにいたのはミストリアではなく……似ているようで違う、知らない別の誰かであった。

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