第一章 6-3


「ところで、本当に徒歩で御出おいでになるつもりだったのですか?」


 思いがけぬ荒野での再会から三日が経ち、帝都までの道程も半ばが過ぎた頃、立ち寄った宿場町の本陣の一室で彼女たちは寛いでいた。


 皇族の御用達というだけあり、周辺の宿場町の中でも屈指の豪壮さを誇っており、家構えだけでなく内装も絢爛豪華けんらんごうかな造りとなっていた。


 彼女の問い掛けに対して、サナリエル皇女はうっすらとした笑みを浮かべるのみである。相変わらずの真意の掴めぬ姿勢に嘆息した彼女は、そこでミストリアの姿が見えないことに気が付いた。


 この三日間で皇女との旧交も温まり、節度を保ちながらも自然な会話が出来るようになっていた。しかし、ミストリアとの間には未だ深い溝があるようで、御料車ごりょうしゃの中では彼女を介して意思疎通が図られている有様である。


 もっとも、二人がそのことを特に気に留める様子はなく、また互いの立場を考えれば致し方のないことでもあった。


 天人てんじん地姫ちぎはヌーナ大陸の平和の象徴とされているが、それはもっぱら王国や教国側からの史観であり、帝国にとっては統一を阻む障害であるという見方が依然として強い。


 皇女もまた帝国の皇位継承権を有しており、皇帝や皇太后こうたいごうとなる可能性が残されていた。今後のことを考えれば、安易に馴れ合う真似も出来ないのであろう。


 それは理解しているつもりなのだが、まだこれから数日間は同道することになるため、女帝二人に挟まれた彼女としては生きた心地がしなかった。


 帝都が近付くにつれて街道には石畳が整備されてきたが、板挟みの車内に揺られ続け、心身ともに疲れ果てていたのだろう。いつしか彼女は、不躾ぶしつけながらも胸中を吐露してしまっていた。


「ニー様の頼みとあらばやぶさかではないが、あの御方と妾とでは水と油……いや、水と火じゃろうな」


 水と火とは、また随分と風流な例えであった。水は言わずと知れたミストリア、そして火は帝国の徽章きしょうである『炎』を体現とする皇女である。


 そう言えば、かつて大陸全土を支配していたカイン皇国も『火』を徽章きしょうとしていた。帝国はかたくなに認めようとはしないが、建国の経緯をかんがみれば皇国の体制を継承したのは明白であり、それが徽章にも現れているのだろう。


 ふと、そこまで考えを巡らせたとき、彼女の脳裏にある違和感が沁み出してきた。ミストリアを水とする理由……無論、火属性の魔法も最高峰の領域にあるが、それでも尚、水属性が突出して際立っているからである。そこに違和を感じさせる要素はない。


 一方、帝国も皇国も火を象徴としており、そこにもまた疑義はない。しかし、敢えて踏み込んでみたとき、今まで考えもしなかった真実の一端を垣間見たような気がした。何故、ミストリアと帝国、或いは皇国は逆なのだろう。


 旧皇国時代に天人てんじん地姫ちぎがどのような役割を果たしていたのか、戦乱とともに記録が失われた現在においては定かではない。


 しかし、神皇しんのうが天人の末裔を僭称せんしょうしていたのであれば、天人地姫もまたそれに相応しき地位にぐうされていたのではないか。


 とはいえ、国家の徽章にまで影響を与え得るかは定かではない。してや、ミストリアの最得手さいえてが水属性だからといって、歴代の天人地姫までもがそうであったとは限らなかった。


「ニー様の心は、いつも変わらずあの御方に向いておるのじゃな」


 皇女の溜息混じりの声に意識を引き戻される。思わず目を向けると、そこにはまた不機嫌そうな顔が浮かんでおり、彼女は慌てていつぞやのように無作法を詫びた。


「別に責めてなどない、むしろ褒めておるのじゃ。人ならざる者と共に歩もうなど、う出来ることではないのでな」


 皇女の言葉には些か棘があるようにも感じられた。それはもう幾度となく問われ、また問い続けてきたことであり、そして未だに答えが見出だせぬものでもあった。


 しかし、喫緊きっきんの課題は帝都に到着してからのことである。既に典礼てんれいの準備は進められており、皇帝との御会見ごかいけんに加え、帝国の上層階級を集めた夜宴も開かれるという。


 帝国の意図は未だもって不明だが、恐らくどれも額面通りにはいかないだろう。自分は天人地姫の陪従者ばいじゅうしゃとして何をすべきなのか……いや、そもそも出来ることなどあるのだろうか。


「まったく、斯様かようにも可憐いじらしい姿を見せ付けられてはたまらぬな。心配なさらずとも、ニー様にはニー様にしか出来ぬことがあるではないか」


 自分にしか出来ないこと……それは何かと顔を上げた彼女の眼前には、いつの間にやら先ほどよりも随分と近い皇女の姿があった。


 その表情はどこかつやめいており、薄手の衣装には手が掛けられ、胸元も少しはだけているようである。


 驚きのあまり彼女は言葉を失ってしまった。しかし、皇女はそんな反応を意には介さず、妖艶ようえんに手を伸ばしながら身をかがめて覆い被さろうとする。


 彼女は椅子から転げ落ちるようにしてそれを躱すが、蛇に睨まれた蛙の如く腰が抜けていた。必死に手で床を掻いて距離を稼ごうとするも、皇女が舌舐めずりをしながら這い寄ってくる。


 いったいこれはどうしたことか。混乱の渦中で頭が働かず、やがては部屋の隅へと追い詰められてしまう。そして、皇女が突き出した手が壁を強く叩くと、その音に思わず身体を硬直させてしまった。


「お、おたわむれは……よっ……いゃぁ……」


 も言えぬ恐怖に怯える姿に嗜虐心を刺激されたのか、皇女は瑠璃色の目を爛々とさせながら恍惚の表情を浮かべている。そして、拘束されて身動きの取れない彼女に対し、赤くべにが引かれた唇で耳をみながら囁いた。


「サニーとお呼びください、ニー様」


 とろけるような声色に硬直した神経が弛緩する。くすぐったい甘美な薫りが鼻孔から体内に浸透し、まるで心を舐め尽くすかのように抗う意思を溶かしていく。


 やがて、彼女の口から求められた言葉が出ようとした瞬間、扉がひしゃげるような破砕音を響かせて開け放たれた。


「二人とも仲がよろしいことね。だけど、もう良い子は眠る時間よ」


 その瞬間、停滞していた心身が自由を取り戻し、まるで飛び跳ねるように拘束を脱した彼女の目に映ったのは、いつになく敵愾心てきがいしんあらわにするミストリアの鬼神もくやの形相ぎょうそうであった。


 見慣れたはずの春の湖畔が如き翡翠の植生しょくせいが、今は冬の凍て付きを連想させる無機質な氷塊へと変貌し、いつも一緒にいた彼女でさえも身震いさせられる。


 しかし、皇女はその敵意を軽く受け流すと、就寝の言葉を告げて自身の部屋へと戻っていった。その去り際は実に飄々ひょうひょうとしたものであり、その胆力には驚かされるばかりである。


 幸いにして危うきを逃れた彼女であったが、二人の仲がますますこじれてしまったことを痛感し、明日以降はもっと息が詰まったものになると頭を悩ませるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る