第一章 5-2


 端的に言えば皇女は風雅ふうがな人物であった。


 国境付近ということもあり、その出で立ちは薄く織り込まれた絹の装束に、帝国の徽章きしょうたる炎の紋章が刻まれた胸甲キュイラス前脛当ハーフグリーブが重ねられている。


 戦場に立つ旗手としてみやびさを漂わせる武装であり、皇女自身の燃え盛るような鮮やかな銀朱ぎんしゅの髪とも相まって、まさしく帝国軍を象徴しているといえた。


 一方、外見こそ雄々おおしさを纏わせながらも、皇女の内から漂う高貴なかおり……瑠璃るり色の瞳の輝く整った顔立ちと洗練された物腰は、生まれながらにしか持ち得ない品位をも感じさせた。


 皇女は彼女の一つ下ということもあり、打ち解けるまでにそれほど時間は掛からなかった。彼女も将来的にはウィンダニア王女に仕えることになるため、主従関係となる女性との接し方についても教育を受けていたからだ。


 しかし、思いの外、皇女が親密に距離を縮めてきて……そう、具体的には身体に密着してくるため、内心では戸惑いを感じてもいた。


「親しき者はそなたをレイニーと呼ぶのか。では、妾はニー様と呼ぶことにいたそう」


 何やら発音が兄様とも聞こえたため、まるで男性みたいだなと内心で苦笑する。りとて、幾ら自分の方が歳上とはいえ、帝国の皇女から様付けで呼ばれることには多大な問題があった。


 皇女の真名はサナリエル=トク=シュウシンカン。ヌーナ大陸で唯一、トクの姓を冠する帝国の皇族である。それは大陸で比類なき存在であることの証でもあった。


 かたや彼女はレイネリア=レイ=ホーリーデイ。レイの姓を冠する王国の高等貴族だが、宮廷内での実質的な序列はオオトモ家や五大諸侯に次ぐ七番手である。


 しかもまだ当主ですらないのだから、皇女と比べれば下賤げせんの身であるといっても過言ではなかった。


「おたわむれはお辞めください。余人よじんにでも聞かれたら、皇女をはずかしめたなどと有らぬ疑いを掛けられてしまいます」


 彼女はやんわりといさめたが、途端に皇女は不機嫌そうな態度を示してくる。今ではその変化も察せられるようになったが、今回の型破りな行動といい、いささか自由奔放が過ぎるようであった。


「ニー様が案じることはない。妾に逆らえる者などそうは居らんのでな」


 皇女は屈託なく笑うが、彼女は一転して冷ややかな感情を抱いていた。確かに皇女には抗うことを許さぬ絶対的な権力がある。しかし、それを傘に来て無道むどうを通そうとする行為は、彼女が最も嫌悪すべきものであった。


「親しき間柄にも礼儀がございます。皇女で有らせられるサナリエル様に、国使の従者に過ぎぬ私ごときが礼を失すれば、それは帝国に対する叛意と映るでしょう」


 そして、それは格好の口実となる。天人地姫がいる以上、よもや武力衝突という事態には発展し得ないが、長きに渡り覇者として君臨してきた帝国には、国力を削ぐ搦手からめてなど幾らでも用意できるのだ。


 彼女の剣幕に気圧けおされたのか、皇女は押し黙ってしまった。にわかに車内に嫌な空気が流れるが、不意に皇女は溢れるような笑みに転じると、目を輝かせて彼女の手を取った。


「妾のことを親しいと思ってくれるのじゃな。では、これからはサニーと呼んでほしい。お父様やお兄様にもそう呼ばれておるのでな」


 もはや彼女は呆れて言葉を失ってしまった。もしも人前でそのようなことを口走ってしまったら、たとえ皇女が許しても臣下から無礼討ちに遭いかねない。


 無礼討ちの実に厄介な点は、臣下の立場としてはしかるべきときに実行に移さねば、後に不忠として処断される可能性があることだ。


 貴き身分の方には、その言動が下々の者たちの道を惑わすことのないように、深慮遠謀しんりょえんぼうであることが求められるのである。


 皇女の好意を無下むげにすることには気が引けたが、今は使者としてわきまえねばならぬときである。皇女とてそれが理解できぬはずがないのだが、大国の姫としてのおごりがそうさせてしまったのかと思うと、少しだけ憐れにも感じられた。


 その後、およそ一週間の旅路において、彼女は皇女に翻弄され続けることになる。広大な版図を誇る帝国の首都までの道程は長く、また途上の宿場町でも極力、傍に控えるように命じられた。 


 当初はその傍若無人さに辟易させられた彼女であったが、時が経つに連れて次第に情が移ってきたのか、帝都が近付く頃には友人……或いは、不敬ながらも手の掛かる妹のように思い始めていた。


 しかし、決してサニーと呼ぶことだけはしなかった。皇女もまたそれを気にしていたのか、ニー様と呼ばれることもなかった。


 如何に距離が縮まろうとも、心を通わせた気になろうとも、歴然とした身分の差が二人の間には存在しており、それを越えてはならなかったのである。


 そして、そろそろ王都が恋しくなり始めた頃、ようやく一行は帝都に到着した。それは国使としての使命が本格化するのと同時に、皇女との別れも意味していた。


 やがて、窓外そうがいの景色が宮殿を映し出し、この奇妙な旅も終わりを迎えようとしたとき、不意に皇女から声を掛けられた。また、何か無理難題でも申し付けられるのかと、少し怪訝そうに振り向いた彼女は目を見張った。


 最初、そこに居た人物が誰なのか分からなかった。いや、疑う余地などないはずだが、これまで供をしてきた人物とはどうしても重ならなかった。


「久方ぶりの善き時間であった。レイネリア殿には妾の道楽に付き合わせてすまぬことをした。数々の無体むたいをどうか許してほしい」


 これまでの暗愚な無邪気さは何処へと消え、その表情は曇りなき静謐せいひつさに満ちており、思わず深く息を呑んでしまう。


 そして、やはり目の前にいるのがサナリエル皇女であることを確信した。それは趣こそ異なれども、ウィンダニア王女にいだく心証と同質のものであったからだ。


「私のような下賤な者に供を許して頂き感謝申し上げます。サナリエル様の御心に気付かず、己の不明を恥じるばかりにございます」


 彼女の謝辞に皇女が相好そうごうを崩す。その光景に安堵する彼女であったが、御料車の扉が開き、先に降りるべく身をよじった瞬間。不意に皇女が顔を寄せ、そっと唇で耳をみながら囁いてきた。


「次に逢うときはサニーとお呼びくださいね、ニー様」


 結局、帝都滞在中に皇女と顔を会わすことはなく、やがて国使の任をまっとうした母とともに王都へと帰還した。しかし、その出会いと別れは、一年が経った今でも強烈な記憶として彼女の中に残り続けている。


 皇女の艶めかしい唇が耳に触れた瞬間、それは背筋が凍り付くような、それでいて甘美さに身悶えするような、筆舌に尽くしがたい感覚に襲われた。そして、それは思い出す度に彼女の心身をうずかせるのであった。


 忍び寄る煩悩を振り払い、視線を荒野の先へと戻したとき、ようやく風景に変化が生じてきた。それは一週間にも及ぶ荒野の踏破を告げる福音ふくいんであり、前方には帝国への入領を雄弁に物語る巨大な要塞が屹立きつりつしていた。


 そして、その地にはくだんの人物の姿があった。

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