第一章 4-1


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「今日はいつもよりも星が綺麗だね」


 恒星がその姿を隠した荒野で、夢幻泡影バブ・ルームにより創られた空間に二人は野営していた。


 この荒野はシュンプ平野と呼ばれており、王都オハリダと帝都カンヨウを結ぶケイ街道の途上にある。両国の移動には避けて通れぬ地域であるが、いずれの領土にも属していないため、その整備は遅々として進まずにいた。


 もすれば進むべき方角を見失い、宛もなく彷徨する恐れもあったが、この地には商人や乗合馬車の往来が頻繁にあり、その蹄跡ていせき軌轍きてつにより自然と経路が形作られていた。


 踏破にはおよそ一週間を要すると見込んでいるが、キノ家から提供された糧食のおかげで道中の不安は微々たるものであった。


 二人は簡素な食事を済ませると、魔法による光源を消して水泡の地面に寝転び、肩が軽く触れるほど傍に並んで星空を眺めていた。


 乾季にあたることもあり、今夜は雲ひとつない晴夜せいやである。また、周囲には灌木かんぼくはおろか丈の高い草も茂ってはおらず、視界の全てが暗闇に煌めく星で埋め尽くされ、天上と地上の境を曖昧にさせていた。


 彼女は隣に横たわるミストリアに目をやった。瞳に映る度に再認識させられる眩いばかりの輝きは、世界に対して身一つで渡り合える強さと美しさを兼ね備えており、まさに地上に光る星そのものだ。


 その輝きがあればこそ、地上はくも安寧を保ち、繁栄という名の果実を享受することが出来る。それは天上に御隠れになった神々が、地上に遺してくれた最後の慈悲でもあった。


 無論、歴史を顧みれば平和な時代ばかりではない。また、比較的安定したといわれる現代においても、陽の当たらぬ場所では多くの者たちが嘆き苦しみ、暴力と悲劇の連鎖は続いている。地上は欲と罪に塗れた地獄なのだとうそぶく者さえいた。


 しかし、天人てんじん地姫ちぎが地上に御座おわすという絶対的事実が、いったいどれだけの人々に勇気と希望を与えてきたことだろう。ミストリアの存在そのものが、神が未だ人を見捨ててはいないことの証左でもあった。


 今は隣に居られることが堪らなく誇らしい。共に同じ時を過ごし、神である姿と人である姿の両方を知れたことが何よりも嬉しかった。いつまでもその輝きと共に在りたいと、それだけを願い続けてきた。


「ねえ、お母様との旅はどうだったの?」


 いつしか、彼女はそのようなことを尋ねていた。ホーリーデイ家の現当主である母もまた、きっと同じ気持ちでこの光景を眺めていたのではないだろうか。


 もっとも記憶が継承されているとはいえ、ミストリアが一緒に旅をしていた訳ではない。してや、母の気持ちともなれば推し量ることは難しいだろう。しかし、返ってきた答えは意外なものであった。


「さあ、一緒に旅をしたといっても王領を出るまでの短い間だったから」


 それは初耳であった。母からは旅に出ることの心構えは聞かされても、肝心の中身までは知らされていない。それにしても、王領までとは些か短すぎるのではないだろうか。


「過去には旅をしなかった当主もいたけれど、そんなに早く終わるなんて前代未聞よね」


 ミストリアが深い溜息とともに声を漏らす。確かに王領までとなると、今回の行程でも一週間ほどであった。しかし、あれほど聡明で芯の強い母が、理由もなく早期に断念するとは思えなかった。


 そんな彼女の疑問を察したのだろう。ミストリアはしばし何かを言い淀んでいたのだが、やがては諦念したかのようにその重い口を開いた。


「もうそのときには、クラウディのお腹の中にはあなたがいたのよ」


 クラウディとは、ミストリアが母に対して親しみを込めて呼ぶときのものである。おそらくは記憶の中の先代の天人地姫がそう呼んでいたのだろう。


 しかし、まさか自分が原因だったとは、これでは母も言い出せない訳である。あの悠々閑々ゆうゆうかんかんを絵に描いたような父と、もうそこまでの関係になっていたことには驚かされるが、離別を迎えずに済んだことはむしろ僥倖ぎょうこうかも知れない。


 それでも考えてしまう。いったい母ならどこまで旅を続けられていたのだろうか。歴代の当主の大半は王国を出ることも叶わなかったというが、そこはまさに彼女たちが立っている場所でもあった。


「いずれにせよ、この辺りまでだったでしょうね。いくら智力に秀でてはいても、こればかりはどうしようもないことよ」


 そう淋しそうに笑う声を聞いて、彼女は胸の奥に痛みを感じていた。それはかつて母が抱いたものなのか、それともこの先で自分を待つものなのか……それは存外、唐突に訪れてしまうものなのかも知れない。


 自然と会話は止まっていた。彼女には返す言葉は何もなく、ミストリアもまたそれ以上を語ろうとはしなかった。この空間の中では時間の流れを感じにくいが、もううに夜は更けているようである。


 星の瞬きすらも聴こえてきそうな静寂の中で、やがて隣からは微かな寝息が響いてきた。この気持ちは何だろう。この愛おしくも狂おしく、喜ばしくも切なしき気持ちは、いったいどう表現すれば良いのだろうか。


『あの方と共にいることが怖くないのですか』


 不意に、別れ際のオユミの言葉が脳裏をぎった。彼女とて、その問いの意図が分からぬ訳ではないが、それは違うのだと思っている。共にいることが怖いのではない、共にいられなくなることこそが怖いのだ。


 いつか訪れてしまう別れのとき、それは本当に避けられぬものなのだろうか。その命題に未だ答えを見出だせぬまま、彼女は右手を天上に向けて高く掲げると、暗晦あんかいの中で燦然さんぜんと輝く星を手指しゅしで、そして掴んだ。


 星の光輝こうきを自らの手に収める。そんな不遜極まりない行為に自嘲しながら、彼女は瞳を閉じると微睡みの中へと沈んでいった。

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