第一章 1-1


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「これ、結構美味しいね」


 中天に座する恒星に目を細めながら、口に含んでいたものを飲み込んだ彼女が感嘆の声を漏らす。その好意的な反応に、隣を歩くミストリアの表情もどこか満足そうである。


 彼女がしょくしているものは枯飯かれいいといい、ヌーナ大陸に広く分布するイネと呼ばれる植物に水を加えて熱し、よく乾燥させた保存食である。


 本来は一度水で戻してから他の食材と共に炒めたり、煮込んで汁物にしたりすることが多いのだが、こうして直接食べるという用法もあった。


「貴族の御令嬢の口にも合うようで安心したわ」


 ミストリアは意地悪そうに笑うと、自身もまた乾燥した塊を口にする。彼女はそれを横目に残りを放り込むと、前方に遥か伸びる街道を遠望しながら大きく背伸びをした。


 二人が王都オハリダを旅立ってから既に二週間が経過していた。大陸を縦断する大動脈となる道筋は、王都から帝国との国境までをケイ街道と呼ばれており、馬車であれば四日、健脚な成人男性であれば二週間程度で到達できるとされていた。


 しかし、女人である彼女は勿論のこと、ミストリアもまた生身の肉体強度は人と大差ないため、未だ道半みちなかばといったところである。


 御幸ごこうが難行とされる理由の一つに、その道程が全て徒行によることが挙げられる。移動だけを目的とするならば、王国の威信にかけてりすぐりの駿馬良馬しゅんめりょうばが用意されたことだろう。


 しかし、天人てんじん地姫ちぎの御幸は救世済民きゅうせいさいみんの旅ともされ、市井しせいの営みをあまねく瞳に映し、困窮する者たちへ慈悲を施すべく、自らの足で歩む必要がある。彼女もまたこれまでの旅路で、そのことを身に沁みて理解していた。


 王都にほど近い宿場町であっても薄暗い路地裏を覗いてみれば、生活に苦しむ浮浪者、悪事に手を染める者、そしてそれらを牛耳る裏社会の陰影いんえいがあった。


 王都の華やかな部分に身を置き、王国有数の貴族として箱入りのように育てられてきた彼女にとって、それは知識で理解するのと現実に観るのとでは大きな隔たりがあった。


 本来、王国民には肉親や近隣者による相互扶助が定められ、そこから零れ落ちた無告むこく窮民きゅうみんのために、義舎ぎしゃと呼ばれる養護施設が設けられている。


 しかし、それらが機能しているのは都市部に留まり、王都から離れるに連れてその格差は顕著となっていった。


 彼女は立ち寄った宿場町で、まだ年端も行かぬ子どもたちが痩せ細った身体をにして働いている姿を見た。


 そして、怪我や病気、或いは老いによって働けなくなった者たちが、道端で旅人相手に物乞いをし、それを快く思わない住民たちから追い払われる光景もまた見てきた。


 いつしか、彼女はミストリアのことを気に掛けていた。神に等しき存在と崇められ、世に繁栄と安寧をもたらすと讃えられても、全ての人々を救うことなど到底できはしないだろう。


 誰もミストリアが天人てんじん地姫ちぎであることを知らない。もしもそれを知ったら、こぞって救いを求めにきてしまう。


 御幸の詳細が秘匿され、天人地姫であることを隠しているのは、救いを求める人々を避けるためなのか。それはやむを得ないことかも知れないが、とても悲しいことだと彼女は思った。


 しかし、彼女はまだ何も理解していなかった。天人地姫が想像を遥かに超える存在であることに、ずっと傍にいたはずなのに本当は分かってはいなかったのだ。


 初めての宿場町の夜、彼女の懊悩おうのうを悟っていたかのように、とばりが下りて星が瞬く空に向けて、ミストリアは天高く両手を掲げて祈りを捧げた。


鄒衍降霜コール・オブ・マーン


 最初は、それが何か理解できなかった。月明かりに照らされて空から舞い降りたのは雪……いや、しものようであった。それは手に取ると綿のように軽く、そして口に含むとほんのり甘く、不思議と体内に活力がみなぎってきた。


 ミストリアは眼前の光景に呆ける浮浪者に、それを食すように告げた。また、他の者たちにもこのことを伝え、皆が口にするようにと言付ことづけた。


 翌朝、人々は一面の白銀の世界に驚きの声を上げた。やがて、それらは溶けるように消えてしまったが、浮浪者たちもいなくなっていたことには気付かなかったようだ。


 ある者は故郷へと帰り、またある者は周囲の宿場街に移り住み、新しい生活を始めたという。また、酷使されていた孤児たちも妙にたくましくなり、何かと反抗するようになったと嘆かれているそうだ。


 王都から帝国に向かう途上の宿場町で、その霜のようなものは北上しながら降り続けた。やがて、それらが天人地姫の奇跡であったことが知れ渡ったのは、二人がキノ領に入ってからのことである。

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