序章 7-2(終)


 は未だ昇らず、街道は薄暗いままであった。幸い、しばらくは一本道なので迷うことはない。問題はミストリアがこの先にいるか否かである。


 既にもう追い付けない程に離されてしまったかも知れない。そもそも街道を通らない可能性だってある。


 或いは、実はまだ屋敷の中にいて、先走った自分が帰ってくるのを呆れた顔をして待っていることも考えられる。しかし、そんな甘い幻想をかなぐり捨て、彼女は只管ひたすらに走った。


 冷たい空気に息は切れ、身体中の筋肉が悲鳴を上げる。それでも、街道の先にミストリアが現れるまで止まるつもりはない。きつい、辛い、苦しい、しかし高揚感がそれを打ち消してくれる……ということはなかった。


 今だってきつい、今だって辛い、今だって苦しい。でも、これは今にしかないものだ。あともう少しで、それすらも出来なくなる。


 きついことはただきつく、辛いことはただ辛く、苦しいことはただ苦しく……そんな現実がすぐ背後まで迫ってきている。


 だから彼女は走り続けた。希望はこの先にしかない。それはもう無くなっているのかも知れないけれど、立ち止まれば本当に確定してしまう。現実逃避と言われようとも、その現実が自分を追い越してしまうまで、どこまでだって駆け抜けてやる。


 しかし、そんな彼女の決意とは裏腹に、やがて身体は緩やかにその動きを止めようとしていた。それは限界の訪れを示唆していたが、僅かに早く東の空が白み始め、周囲が明るさを取り戻したとき、街道の先を往く黒い人影をその目に映した。


「ミスティーー!!」


 痛んだ肺を酷使して力の限り叫ぶ。普段は貴族のたしなみ程度にしか鍛えていなかった身体は、ここまで自分でも驚くほどに応えてくれていた。あと少し、もう少しだけで良いから耐えてほしい……そう、彼女は願った。


 距離が近付くにつれ、次第にその輪郭がはっきりとしてきたとき、黒い影は見覚えのある漆黒の外衣ローブに変わり、振り絞った叫び声に振り向いた頭巾フードからは、見慣れた金糸の髪と翡翠の瞳が覗いていた。


「ミスティ……」


 それは確かにミストリアであった。湧き上がる不安を振り払いながら、か細い可能性に賭けてここまで来たが、どうやら間違いではなかったようだ。


 彼女は思わず安堵の息を漏らしたが、それに対するミストリアの視線は、今までに見せたことのないほどに厳しいものであった。


「レイニー、なぜ来たの?」


 それは明らかな拒絶であった。しかし、ここまで来て今さら怯む訳にはいかない。彼女はミストリアと対峙しながら、かつて母から聞かされた言葉を思い返していた。


 御幸の陪従、旅の同行、自分たちが全力で想いをぶつければ、天人地姫もまた必ずそれに応えてくれるのだと。


「私はあなたに付いて行きたい。あなたと一緒に旅がしたい!」


 それが今の彼女に出来る精一杯の言葉のはずだった。しかし、無情にもミストリアは首を振り、その申し出を拒否する。


 彼女は母に少しだけ文句を言いたくなったが、もはや言葉だけでどうにか出来るものではないことも悟っていた。


「この旅はレイニーには無理よ。あなたを危険な目には遭わせたくないの。どうして分かってくれないのよ」


 ミストリアが苛ついた様子で目を逸らす。それは思い通りにならないことへの憤り以上に、深く悲しんでいることが彼女には分かった。


 本当はこんなことを言いたくはないのだ。だから幸せな思い出を残したまま、黙って出ていこうとしたのだ。


 ミストリアは何も悪くない。悪いのは自分だ。自分にもし武芸や魔法の才があれば、才がなくともそれに代わるものを探していたら、ミストリアを心配させることなく一緒に旅が出来たのかも知れない。


 歴代のホーリーデイ家の嫡子たちが、どのようにして天人地姫を説き伏せてきたのかは分からない。ある者は力で、またある者は智慧ちえで、例えその旅が短命に終わろうとも、納得がいくまで共に歩むことが出来たのだろう。


 しかし、彼女には出来ない。彼女には何もミストリアに示せるものがない。それは積み重ねることをしてこなかった彼女のとがだ。


 だが、それがどうしたのか。ないからそこで諦めるのか、そうではないだろう。自分のミストリアへの想いは、そんな理屈で割り切れるものではなかったはずだ。


 だったら、せめて気持ちだけは高く持とう。足りない自分を認め、至らぬ自分を悔い、それでも尚、全身全霊でぶつかろう。


「私には無理と言ったわね。じゃあ……もしも無理なことを可能にしたら、私を認めてくれる?」


 つまりは、何か無理なことを可能にして見せることで、陪従もまた不可能ではないと証明するのだ。論理的には破綻していたが、ミストリアは無言で続きを促した。


「今からその障壁を打ち破って、あなたに重い一撃を加えてやるから覚悟しなさい!」


 彼女はミストリアを見据えたまま、威嚇するように攻撃の意思を示す。その言葉にミストリアは一瞬、獲物を前にした蛇のように睨み付けてきたが、やがて澄ました様子で挑発し返してきた。


「……良いわよ、もしもレイニーにそんなことが出来たならね」


 にもかくにも交渉は成立した。しかし、それはあまりにも無謀な勝負であった。


 無数の矢を弾く未投射、攻性魔法を無効化する不干渉、そして国を背負う武人の斬撃すらも阻む非接触の障壁……そんなものが彼女に打ち破れるはずもない。


 確かに最近は接触があったが、それは例外的にミストリアの意思で触れたことによるものだ。しかし、ミストリアはもうそれを望まないだろう。彼女のことを誰よりも大切に思うからこそ、二度と触れることが出来ないのだ。


 彼女はゆっくりとミストリアに近付いていく。もはや、ここまでの道中で体力は使い果たしている。それどころか、下手をすれば筋を痛めたかも知れない。


 もうミストリアはすぐそこだ。あとほんの少しで非接触の障壁が作用し、先に進むことを阻むだろう。その距離こそが彼女とミストリアの、僅かにして永遠の溝となる。それはこの先も存在し続け、また次代でも同じ葛藤を生むのだろう。


 無理なことは無理だ。出来ないことは出来ない。成長とはそれを知り、自分と世界に折り合いを付けることだ。だが、今だけはそのときではない。彼女は両手を前方に振り上げるとミストリアに向かって飛び込んだ。


 障壁は正式な名称を『三位一体サンニャー』といい、三つの層から成り立っている。


 好奇、羨望、嫉妬、敵視…そんな悪意の感情から守るための未投射の階層。

 恫喝、強制、拘束、支配…そんな精神の束縛から守るための不干渉の階層。

 危害、肉欲、衝動、殺意…そんな肉体の危機から守るための非接触の階層。


 それらはミストリアを守るため、人ならざる身で現世に生きることをいられた少女が、他者からその心を傷付けられないように施した自己愛の壁だ。


 しかし、彼女には障壁の仕組みが理解できていた。障壁が作用しない条件、それはミストリアが自ら触れた場合だけではなかった。


 かつて幼少期の自分にはなかったように、そして昨夜の自室での出来事のように、障壁は真にミストリアを想い、その心を傷付けようとしないものには作用しないはずなのだ。


 後にミストリアの語ったところによると、正確には害意に反応するものらしい。故に敵意は勿論、たとえ友好的でも裏に欲望があれば害意として扱われる。そして、それは弓矢や魔法など、主の手を離れたものにも思念として残留するのだという。


 一方で、全くの意思なき行為、或いは自然現象などには作用しない。これは術者の生命活動を維持するための措置であり、それらが脅威として障害となった際には、一般の魔術師のように任意の障壁を展開して対応することになる。


 しかし、完全に欲望を抱かずに接するなど、自我を持つ人間には不可能に近いことだ。無邪気な幼児ならいざ知らず、人は成長するにつれて欲望が育まれ、むしろそれが生きる活力ともなるため、一概に悪とは断罪できないものである。


 だからこそ、今までは障壁が作用した。彼女を以ってしても、自己の欲望を抑えてミストリアと接することは出来なかったのだ。


 してや、一緒に旅がしたい、宿命を受け入れたくないという欲望のもとで、重い一撃を加えるとまで宣言したのだから、障壁が作用しないはずはなかった。


 しかし、結論から言うと障壁は作用しなかった。彼女は何の抵抗も受けずにミストリアに肉薄すると、振り上げた両手を下ろし、そのまま背中に回して抱き締めた。そして、今度こそ全力でぶつかった。


「私はあなたと離れたくない。ミスティ、あなたが居ない世界なんて耐えられないの。だから、私を置いてかないで……あなたと一緒にいさせて」


 それはきっと、愛と呼ぶべきものなのだろう。そして、それが欲望からではなく……いや、仮にそうであったとしても、ミストリアの心を傷付けはしないことを皮肉にも障壁自身が証明したのだ。


 宿命ゆえに愛されることを知らず、また愛することも知らず、自己愛で自分を守ることしか出来なかった少女。


 強固に守り続けた心の壁を越えられ、その弱い内側にまで飛び込まれてしまった今、もはやこれ以上抵抗するすべは、いやその意思はないようであった。


「もしも、あなたがホーリーデイ家を出て、私が天人地姫であることをやめたら……」


 不意にミストリアから発せられた言葉は、しかしその先が告げられることはなく、しばし二人は抱き合ったまま街道に立ち尽くしていた。やがて、ミストリアは観念したように彼女の耳元で囁いた。


「レイニーには負けたわ。こんな重いのをもらっちゃったら、あなたを認めない訳にはいかないじゃない」


 それはいま初めて、本当の意味でミストリアに認められたのだと彼女は悟った。そして、期待に満ちた表情でその先を待つ彼女に、ミストリアは仄かに笑みを浮かべながら一番言って欲しかった言葉を口にする。


「レイニー、私と一緒に来てほしい」


 本当に欲しかったものは許しではなく、求めだった。自分がミストリアを求めるように、ミストリアにも自分を求めて欲しかったのだ。


 もう、恐れるものなど何もない。旅はまだ始まってすらいないけれど、ミストリアと一緒ならどんな困難も必ず乗り越えられる……そう、彼女は強く信じた。


 やがて東の空に恒星が昇ると、温かい陽の光が二人を優しく照らし出した。王都の北、帝国と教国を越えて、遥か彼方の霊峰へと至る道程は、光を浴びて燦々さんさんと輝いているように見えた。


 それはこの先にどこまでも果てしなく続く、二人の過酷な運命の始まりを祝福しているかのようであった。



 これは、今はまだ何者でもない少女レイネリア=レイ=ホーリーデイと、伝説を生きる神々の忘れ形見ミストリア=シン=ジェイドロザリーが、秘匿された世界の果てに至るまでの物語である。




序章 旅立 完

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