序章 7-1


-7-



『この子がミストリアよ。二人とも仲良くしてね』


 母様に連れられた少女は、まるで吸い込まれそうな翡翠の瞳をじっと自分に向けていた。以前から家族が増えることを聞かされており、それは弟でも妹でもないようだが、とても嬉しい気持ちになったことを覚えている。


『よろしくね、ミストリア』


 そう言って少女に手を伸ばした。しかし、少女はその手を取ることはせず、恐る恐る遠巻きに眺めているだけであった。その態度が少しだけしゃくに障ったが、母様から仲良くするように言われたため、構わずその手を握った。


 少女は驚いた様子で身体を震わせたが、しばらくして安堵するような笑顔に変わる。思わずその表情の変化に驚いてしまうが、不思議と少女を見つめていると何処か懐かしい気持ちが溢れてきた。


 少女もまた同じようで、二人で手を繋いだままお互いを覗き込んでいたのだが、やがて母様に促されて屋敷の中を案内した。


 玄関から大広間を通り抜け、食堂や浴場などが続く中廊下を渡ると、使用人や従者の部屋を横目に庭園へと降りる。


 1階を一周するようにして再び玄関をくぐり、自室がある2階へと上がろうとしたとき、階段の踊り場にある大鏡に自分たちの姿が写った。


 その瞬間、ふと違和感を覚えた。それは記憶の中の自分が感じたものではなく、それを見る現在の自分によるものだった。


 全ては夢であり、幼き日の出会いを思い起こしているのだろう。だから細部には記憶違い、或いは夢であるが故の変質があっても仕方がない。


 しかし、それでもやっぱりおかしい。これはいったいどういうことなのか。そう、あれではまるで***ではないか……。


……


……


 不意に寒気を感じて彼女は目を覚ました。先ほどまで懐かしい夢とそれに対する強い違和感を覚えた記憶があるが、次第に意識が明確になるにつれて忘れてしまった。


 窓を見上げると未だ外は暗く、どうやら朝までには時間があるようだ。もう一度寝直そうと身体の向きを変えたとき、自分が寝台の上に独りでいることに気が付いた。


 いや、寝台なのだから独りなのは当然だ。確かにいずれは誰かと同衾どうきんする夜も来るだろう。しかし、それはまだもう少し先のはずである。そんな益体やくたいもない思考を高速で追い抜き、彼女は廊下へと飛び出した。


 そのまま真っ直ぐミストリアの部屋へと向かう。灯りの落とされた廊下は薄暗く、ひんやりと冷気が漂っていたが、そんなことは意に介さずに先を急ぐ。やがて部屋の前まで辿り着くと、扉を叩くのももどかしく取っ手を掴んだ。


 それは何の抵抗も示さず、拍子抜けするほどあっさりと開いてしまった。たとえ屋敷の中であっても就寝時は鍵を掛けるように戒められていたが、それを咎めるべき相手は既にいなかった。


 室内の家具に特段の変化はないが、ミストリアの私物がなくなっていた。元より出立に備えて整理されていたが、いつも外出時に纏っていた漆黒の外衣ローブがどこにも見当たらない。


 もはや疑う余地はなかった。彼女は急いで自室に戻ると手早く着替えを済ませ、取るものも取らずに階段を駆け下りる。


 まだ大広間には家族や使用人の姿は見えなかったが、構わず玄関の扉を開けて庭園を抜けると、屋敷の外門から王都の大通りへと飛び出した。


 そのまま只管ひたすら、北に向かって走る。ミストリアは必ず北門を通るはずだ。周囲はまだ薄暗く、門が開くまで時間があるから、今なら間に合うかも知れない。外気から、そして内部から漂う悪寒に身を震わせながら、彼女は懸命に北門を目指した。


 やがて、大門が観えるところまでやって来たとき、未だそれが閉められたままであることを確認し、安堵の息を漏らす。しかし次の瞬間、彼女は恐ろしい想像をしてしまった。


 ミストリアは朝の開門を待たず、もうその先へと行っているのではないか。ミストリアの魔法を以ってすれば、空を飛ぶなり壁をすり抜けるなり、或いは幻術で門番に開けさせるなり容易に出来るはずだ。


 とにかく、まずは門番に確認しなければならない。ここでミストリアを見なかったか、或いは例外的に門を開けた事実はないか。そして、ようやく門の前までやって来た彼女は、警備をする兵士に声を掛けようとした。


「あれ、レイニーじゃないか。こんな時間にどうしたの?」


 思いがけず逆に声を掛けられてしまい、驚きながら相手の顔を見ると、それはあのオヒトであった。彼は同僚とおぼしき兵士に何かを伝えると、いつもの無邪気な笑顔を向けて駆け寄ってくる。


 どうやら話を聞くところによると、あの軍事演習以降、騎士団を離れてメイラ将軍のもとで世話になっているらしい。お世辞にも栄転とは思えなかったが、今はただ彼がここに居てくれたことに感謝した。


 彼女は事の経緯を掻い摘んで話した。彼は真剣に話を聞いてくれたが、肝心のミストリアについては心当たりがないそうだ。


 念のため詰所の兵士にも確認してもらったが、誰も姿を見ていないという。彼のことだから、ミストリアに頼まれたら二つ返事で開門してしまうのだろうが、逆に隠そうともしないため、嘘を付いているようにも思えなかった。


 彼は門番の職務の都合で、昨夜の祝宴に参列できなかったことを詫びてきた。もっとも、ミストリアの白無垢を見られなかったことには、まだ気付いてはいないのだろう。


 しかし、今はそんなことよりも論じるべきことがある。果たして、ミストリアは門を越えたか否か、その可能性はどのくらいあるのだろうか。


「そうだね、ミストリア様に掛かればこんな門は無意味だよ」


 彼女の抱いた疑問に対し、彼は門番に有るまじき発言で賛意を示した。りとて、開門は陽が昇ってからと国内法で決められており、このまま朝になるのを待っていたら追い付くことは不可能になる。


 天人地姫の御幸は救世済民きゅうせいさいみんの旅でもあり、何処其処どこそこの村が奇跡により救われたなど、その軌跡が人づてに伝わってくることはあれど、一度その姿を見失えば再会することは絶望的であった。


「お願いオヒト、この門を開けて」


 彼女は懇願した。それがどれほど彼の負担となり、その微妙な立場を危うくしてしまうかも分かっている。それでも、今はすがるより他にすべはないのだ。


 しかし、彼は迷うことなく首を振り、その申し出は拒否された。彼女は万策尽きてその場に項垂うなだれたが、続く彼の言葉は意外なものであった。


「レイニー、誤解しないでほしい。僕は職務だから門を開けないんじゃない。それがミストリア様の御意志だと思うから開けられないんだ」


 彼女は驚きながら彼を見上げた。先ほどは心当たりがないと言ったはずだが、それはどういう意味なのか。堪らず詰め寄る彼女に、彼はも当然のように答えた。


「もしも、ミストリア様が陪従を認めたのであれば、レイニーに黙って出御しゅつぎょあそばされるはずがないだろう」


 その通りであった。いや、本当は彼女も気付いていた。今のこの状況は、ミストリアが拒絶したということだ。大切な人は……大好きな人は、自分を置いて行ってしまったのだ。


 それを認めたくなくてここまで来たが、もうミストリアに会うことは出来ない。ホーリーデイ家の嫡子としての宿命を変えることも出来ない。ただ昨宵さくしょうの寝台の温もりだけが、恋い焦がれた想いの残滓ざんしなのだ。


 しかし、しかしだっ、そうであるならば今の自分は何だ。自分はなぜここにいる……いや、なぜここに来ることが出来た。いつもならば、今頃はまだ寝台の上で寝息を立てていたはずではないか。


 今ここに自分がいることには必ず意味があるはずだ。だったら、まだ希望は潰えてはいない。そのとき彼女は、ほんの小さな可能性の芽を見つけたような気がした。


「ミスティならば、魔法で私を眠らせておくことも出来たはずよ。でも、私はここにいる。それはまだミスティが迷っているから……いいえ、私が自力で門を越えて追い掛けてくるのを待っているのよ」


 それが真実であるかは分からない。ミストリア本人を除いては答えられない。しかし、まだ可能性があるのならば、御幸の陪従が定まっていないのであれば、自分を向こうへと、希望へと通してほしい。


 それは願いのようであり、要求のようであり、そして脅迫でもあった。誰にも知り得ぬ天人地姫の意向を盾に、法を捻じ曲げて門を通せと言うのだ。


 例えホーリーデイ家の嫡子であっても、その横暴はまかり通らないだろう。ただし、ここに居たのがオヒトでなければである。


「……分かった、門を開けるよ」


 それは彼女にとって文字通り最初の関門……まだ何も解決した訳ではないが、それでも力ずくでじ開けた第一歩であった。


 いや、もしかするとオヒトは最初からその答えを待っていたのかも知れない。黙って成り行きを見守っていた兵士の中には、開門に異議を唱える者もいたが、彼は毅然とそれを跳ね除けた。


「御幸への干渉は何人なんぴとたりとて許されない。しからば、彼女にはその要否を受命する義務がある。それを阻むことは王国への叛意はんいと心得よ!」


 くして、北の大門は開かれた。彼女は待ちきれずに兵士と一緒になって門を押すと、やがて開いた隙間に身体を滑り込ませながら彼に礼を告げる。


「レイニー、旅を終えて帰ってきたら、そのときは君を……」


 後ろでオヒトが何かを叫んでいたが、街道をひた走る彼女の耳には届いてはいなかった。

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