序章 4-5


 ミストリアの突然の暴言に彼女は驚いてしまった。しかし、皇太子の目的がミストリアへの恋慕であるとすれば、その行動にも幾らか説明が付くのだ。


「皇太子は私の味方をすることで、ミスティに好印象を抱かせようとしたんじゃないかしら。ほら、将を射んと欲すればず馬を射よって言うじゃない」


 親しい者から薦められた相手は無下には出来ないものだ。彼女は自身を馬に例えることに甘んじてまで自説を強弁しようとした。一方、ミストリアが送ったのはその馬を打つ鞭である。


「とある国家の権力者は自らに逆らう者を判別するため、わざと鹿を馬と呼んで反論してくるかを試したらしいわ。でも、私はいま思ったの。或いは本当に鹿を馬と間違えていたんじゃないかって」


 あまりに遠回しに言われたことで、しばしその意図が分らず首を傾げていた彼女であったが、やがて自分が馬鹿にされたことに気付いて頬を膨らませた。


 それを楽しそうにも呆れたようにも眺めていたミストリアは、これ以上は時間の無駄とばかりに話を進める。


「皇太子の真意は別として、国内が一枚岩でないのは帝国も同じということよ。そして、何よりの失態はそれを宴席の場で示してしまったことね」


 本当の問題は意見の相違そのものではなく、それを衆目の面前で見せてしまったことである。案外、皇帝と皇太子の対立は想像以上に根深いものなのかも知れない。


 そして、彼女たちが思い至った程度のことに、宮廷政治に長けた五大諸侯の一族が気付かぬはずはなかった。宴席での沈黙は何も皇太子の威光に押されたのではなく、皆がその異様さを感じ取ったからなのである。


 逆に言えば、皇太子にはそこまでの失態を犯してまで、あのような発言をすべき理由があったことになる。それは一体何か、一つの疑問が解ければ、それがまた新たな疑問として湧いてくる。


 仮説の迷宮に限りはない。ともすれば、囚われて正常な思考すらも覚束おぼつかなくなる。それを見かねたのか、ミストリアが諭すように彼女に告げた。


智慧ちえある者は一つの行動に複数の意図を忍ばせるものよ。それは時に相反することもあるから、全てを正確に読み解くことは難しいし、あまり意味もないわ」


 今回の軍事演習の真なる目的、それを知るのはもっとずっと後なのだろう。この先も延々と……それこそ生涯にわたり、腹の探り合いを続けていかねばならないのだ。それは気の遠くなるような話であったが、既に彼女の決意を固まっていた。


「ふぅん、その様子ならもう大丈夫そうね」


 ミストリアは少し淋しそうに笑うと、彼女の額を優しく撫でた。その手指しゅしはひんやりとして気持ち良く、彼女はまるで母親に甘える子供のごとく、嬉しそうに照れくさそうな表情を浮かべていた。


「もうすぐ十八になるんだもん。月日が経つのは早いものね」


 彼女が成人するまで、あと数ヵ月を残すばかりである。そしてそれは、ミストリアの旅立ちをも意味していた。


 若輩ながらも大人の一員と認められる日、その先には各々の使命が待っている。それは決して平坦なものではないが、二人は独りで乗り越えていかねばならない。


「……ねえ、本当にミスティが行かなければならないの?」


 愚問であることは分かっていた。それでも敢えて聞かずにはいられなかった。初めて出会ったときからいつも一緒だった。その絆は本当の姉妹よりも強く、硬い。


 彼女は今一度、ミストリアを見つめた。その少女には神との契りが約束されている。しかし、もしもミストリアも同じ気持ちであったのならば……。


「ええ、それが私の運命だから」


 その言葉にはどこか諦めにも似た響きがあった。ミストリアは彼女の額から手を戻すと、おもむろに立ち上がり就寝の言葉を告げる。彼女は離れゆく背中に向かい、決して漏れることのない叫び声を上げた。


 ずっと傍にいてほしい。どこにも行かないでほしい。それでもどうしてもと言うのなら……どうか、一緒に連れて行ってほしい。


 遠ざかるミストリアに、縋るような彼女の手が伸びる。しかし、それは障壁に達するまでもなく止まってしまった。

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